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2009年12月10日(木)

物語論のつかいみち(12.16訂正&追記) 

「レイプはセックスではない」と言い切るのは、あたしは少し怖い。性暴力を受け、それでも加害者との関係をつづけた/つづけている被害者が現在の時点からそれを物語るとき、関係自体が暴力ですべて間違いであったと切り捨てるか、あるいは暴力性をなかったことにしてしまうかの二者択一でしか「筋の通った語り」を構成できないようなことばしか与えられないのは、望ましいことではないと思う。
かといって「レイプもセックスだ」とは、口が裂けても言ってはいけない。それは、性暴力の問題を当事者(もちろん加害者も特に被害者)の「下半身の問題」に還元させ、暴力を告発しようとする被害者を「貞操を守れなかった落伍者」と、「公的な場所で性のことを口にしない」というタブーを侵す者、という二重の二次加害的なまなざしにさらすことになる。
たぶん、あたしたちは「セックスも時にレイプである」と、言うしかないのだ。

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そして、「動機」もまた、現在の時点から過去の加害を他者に物語るなかで、構築されるものだ。供述として。インタビューとして。武勇伝として。その際にすでに社会に「ありうる動機」として流通していることばを取り入れ、組み合わせて「筋の通った」物語がつくられる。一度語られたそれは、社会に流通して、「ある犯罪を起こしうる理由」として社会的に認知された物語の中に組み込まれる。「誰でもよかった」ということばが、はじめ「わけの分からない殺人」としてセンセーショナルに報道されながら、現在ではすっかり「今のご時世、ありうるよなあ」と受け止められてしまっていることを思い出してほしい。
性犯罪においては、その「ありうる」として流通している物語にあたるのが「強姦神話」である。強姦神話を批判するというのはつまり、物語が語られ、流通し、また語られていく中で性差別の再生産が行われているその輪を、断ち切ろうとするということなのだ。

追記:
性暴力の語りはすでに流通している物語に規定されながら、語りかける相手との関係性や、語りの場の性質にも依存している。社会的合意のある(とされる)物語をどのように扱うかは、それによって決まる。たとえば、供述と、インタビューと、武勇伝と自省の語りでは、「同じ過去」を振り返りながらも別様の物語りがなされる。そして、そこで語られた物語によって、関係性や、「どのような/どのように」語るべき場であるかは、そのつど決定されなおされているのだ。
過去を現在の時点から振り返って物語ることは、また、「このような私」として自己を常につくりかえていくことでもある。これは、第三者として物語るときでも一緒だ。むしろそのように語ることによって、自らの当事者性を排除し、いまある性差別を所与のものとする「第三者」になる、とさえ言える。
だからこそ、よりいっそう。物語行為を通した社会形成と自己形成の営みに組み込まれた強姦神話を、解きほぐしていかなければならない。

なお、「物語」と「物語り」もしくは「物語行為」の区別は、物語の哲学 (岩波現代文庫)に依拠した。昨年の東浩紀さんのエントリーをめぐる騒動のせいで評判が地に落ちている気がするが、それで読まなくなってしまうのはもったいないくらい、示唆に富んだ本だ。
とくに、批判を受けたあとの文庫版あとがきで「物語りえないことについては沈黙せねばならない」という当初のテーゼを「物語りきれないものについては、物語り続けねばならない」と訂正しているところ(P.363-365)は、とても大事なポイントだ。「物語りきれないもの」は、事実そのものの存在を信じてそれを物語ろうとすることによってのみ、浮き彫りになるのである。もっとも、同じあとがきのすぐ後の部分(高橋哲哉への応答)で、書かれ/語られた歴史がことごとく特定のパースペクティブからの「物語」にしかなりえないのなら当然生じるはずの、「物語る私」の政治性への責任を、歴史学者や歴史哲学者については免除しているように読める部分は批判されるべきだろうな、とあたしは思うけれど。
ていうか、東さんの援用の仕方はちょっと変、というよりあれは野家さんの議論ではなくて、東さんの独自理論だろうと思う。書籍で追うかぎり、たしかに彼は「自然科学ならぬ歴史学が『異論』の抗争の場であることは当然」(P.367)と言っているが、歴史記述の歴史学的妥当性については、手に入る証拠との蓋然性によって、その物語の優劣(正誤ではなく)を判断すべき、と書いている。むしろ、それこそが彼の理論の核だ。一方で、歴史記述の政治的・倫理的な正しさの判断は、自身の「物語り論」の適用範囲である歴史研究の場の外にゆだねている。歴史的事実をどうあつかうかと、「南京事件はなかったと断言するひとが一定数いる」かどうかは、まったく関係ない話だ。「関係ない」にも関わらずその文脈で利用されるなら、「物語り論」の外から批判がなされる。それに、歴史修正主義批判を「私的に公的に」しか語れないならなおさら、「私的」な部分を公的批判にさらされることを受け入れなければならなくなるのだけど。
あたしも不勉強なので大したことは言えないのだけど、「事実そのもの」なんて存在しないとするか、あるいは不可知とするか、で物語論者にも立場の違いがある。そして、「物語」という視点を導入することで、いったい何を問おうとしているのか、常に自覚的でなくてはいけないのだ。つまり、「方法論」としての視点が不可欠、ということ。去年のことを思い出し、そんなことをぐるぐる考えながら書いたので、タイトルは『物語論のつかいみち』とした。

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