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2009年07月10日(金)

軽くて重いことば 

いくつか書きかけの記事がたまっていますが、この件だけ急いで先に書きます。後ほど下書き状態になっているエントリを優先順位をつけて完成させていくつもりなので、もっと前の日付の記事がいきなりアップロードされることになるでしょうが、ご理解願います。
といっても、すでにだいぶ出遅れてますが。

「在特会許すな!ファシスト倒せー、おー!」 - はにかみ草
自由帳で数学とか物理とか | 「反日上等!」と外国人差別反対デモで掲げるのがなぜいけなかったのか
この件ね。論争に加わっていらした「いしけりあそび」さんをはじめ、国籍法改正のときにネット中を駆け巡ったデマの火消しに尽力してくださった方々に水をぶっ掛けたくなかったので静観していたのですが、やっぱりどうにも違和感がぬぐえないので。

先に私の立ち位置を提示しておきます。*1ニューカマーの中国系2世で、現在は永住権を持っています。国籍をどうするかは考え中。在日特権を許さない市民の会のような人たちが敵視している「外国人」に私は該当しますが、明日にでも強制送還されかねない「最前線の外国人」のうちには、おそらく入りません。今回のカウンター・デモには参加していませんが、遠くから「がんばれー」と応援していたうちの1人です。
だから、「外国人」と「排外主義に反対する人」という二つの立場から語ります。私に「当事者」の資格がないと思う人は後者の見解として、「日本人」ぶるのが気に入らない人は前者として、どうぞお読みください。私は、自分の位置を測りかねています。

【More・・・】

日の丸を「ウンコ」に変える、といったパフォーマンスを個人的にどう思うかと言われれば、正直好きではありません。「過激」で「お下品」なやり方に引いてしまう程度には、私は育ちがいいのです。体制に親和的な振る舞いが「マナー」として染み付いてしまっている、という意味で。だからもしその場にいたとしても、私はそういうやり方はしなかっただろう、と思います。この人たちとはお友達になりたくないな、くらいのことはひょっとしたら思ったかもしれません。
けれど日本に暮らす人が日本の旗を「ウンコ」にしたのであって、それ以外ではないということを理解しておく必要があります。それは国内にいるマイノリティを傷つけるために行われたのではありません。他国を、政府と国民をひとくくりにして、レイシズムを織り交ぜて揶揄するために行われたのではありません。そうである以上、国旗を「下品」なものに加工する、という抗議手段は必ずしも否定されなければいけないものではない、と私は思います。今回のような場にふさわしかったかどうかは議論されるべきでしょうが、象徴としての「国旗」を拒絶する立場から「外国人」へ連帯を表明する、というのは十分にありうる話です。

次に「反日上等!」について。これも多分に(ひょっとしたら過度に?)毒を含んだ表現ではあるでしょう。悪意をもって張られたレッテルを、そのまま肯定的にとらえ返しているわけですから、早い話諸刃の剣です。それでも、「外国人排斥反対」を掲げるデモの中にそうした主張を(もつ、ではなく)する人がいること自体を非難されてしまうと、なんとも形容しがたい居心地のわるさを覚えます。
ひっかかってしまうのは、いつの間にか今回の件が「外国人支援にかこつけて安全圏から政治主張する日本人と、ただ日本で平穏に暮らしたがっている弱い外国人」という構図に落としこまれてしまっていることです。いしけりさんなどはそうとれる物言いを慎重に避けていらっしゃるように見えますが、そこに「かれらはただ日本人の間で穏やかに暮らしたいだけなのに…」というような主旨のコメントやブックマークがつけられ、誰もそれをたしなめないどころか、賛意が示されている現状があります。「反日上等!」は当事者が心から絞り出したコトバなのか、という問いかけがなされていますが、まさしくそれに「YES」と答えるような、「日本」として区画された領域に暮らし続けることを望みながらも、そこに息づく大日本帝国的なものの名残や自らを排除する制度としての「日本」の解体を望む「外国人」は、いないことにされてしまっています。そこでは「外国人」は、政治的主体性をもたない「かわいそうな犠牲者」としてしか存在を許されません。芋畑を潰された門真市の保育園児たちにさえ「かれらの主体性を否定するな」と声が上がったのに、今回は誰もそう言ってくれない。だれも。
それどころか、「外国人が自分で反日とか言って嫌われるのは勝手だけど、当事者が言ってないのに日本人が勝手に巻き込むなんてサイテー」といった声さえ、ありました。もっともか弱く善良な「純粋な被害者」のみを保護していればいいのでしょうか。「政治的」な「外国人」にいかに向き合うかは、後回しでいいの?「反日上等!」と叫びうる「外国人」は、いったいどこに居場所を見つければいいのでしょうか。
軽々しく(と見えるらしい)発される「反日上等!」に苛立つ外国人がいることは知っています。ひとりごと - sharou - はてなハイクとか。けれど、在特会のやり方に憤りを覚える人が一枚岩ではないことが今回はっきりしたように、「外国人」だってひとつではないのです。ひとつにされてしまうのは、「当事者」になるために政治的であり同時に日常を生きてもいる身体を引き裂かれるようで、息苦しいのです。

そうは言ったって、現に「最前線」の外国人たちは、ホンの少しでも「反日的」と疑われれば深刻な不利益を受けうる。諸刃の剣の「副作用」に当たる部分を、真っ先に受けてしまう。そうかもしれません。ていうか、そうなんでしょう。「当事者を支援している」とは逆立ちしても言えない安穏と生きている私でも、立場柄、入管制度の狭間で追い詰められる人の存在を間近に見ることはあります。「偽装結婚」と言われて、母親とともに収監された乳飲み子がいます。「歓楽街で働く若い中国人女性」の端くれとして、事件に巻き込まれても警察を呼ぶことさえできない同僚を知っています。かのじょらの立場の弱さは、わずかなりとも理解しているつもりです。
そうした人々を守ろうとする現場は、きっと「待ったなし」なんだろうと思う。マジョリティにとって都合の悪いマイノリティに対する差別をこそ、正面から問わなければならないとか、「そもそも論」をやっている間にどんどん人が強制退去させられていく。人身売買や奴隷的な労働環境の中で心身ともにボロボロになっていく。「本国」で迫害を受ける危険が、眼前に迫ってくる。そういう場なのでしょう。だから、当事者は声を上げられません。個別的具体的な「外国人」を支援する人々も、うかつにトガったことを言うわけにはいきません。
けれど今回のデモは、在特会に対抗して、個別ではなく「外国人」全般の排斥に反対する声を上げるために主催されたはずです。在特会の主張が行政や「国民」への要求にとどまらず現に日本で生活している「外国人」への恫喝として機能するように、対抗デモのことばは単に排外主義者への抗議や、行政と「ふつうの市民」に向けられた、外国人を支援する側の訴えかけであるだけではありません。それは「外国人」に対して、「私たちはあなたたちを決して排斥しません」と「日本人」の側から意思表明する意味をも、もっています。政治主張する人々や、私の同僚のように水商売や風俗産業で働く人々、そして時には「違法」な仕事をして生き抜く人々。それら「善良」とはいいがたい、在留資格のない外国人に同情的な「良識ある日本人」からさえも問題ある当事者として切り捨てられかねない、「反日的」と名指されてしまうような「外国人」たちに対して、「反日上等!」ということばで共感を繋げ支持を言明する。そうするのにこれ以上にふさわしい場が、他にあるでしょうか。それは決して、単に無邪気で軽いことばではなく、表明されるべき重みを持っていると、私は考えます。
別に、デモに賛同する全員がそうしなければいけないとか言うつもりは、毛頭ありません。保守や愛国を名乗る人も含め、立場を超えて、あからさまなレイシズムに反対する。素晴らしいことだと思います。ていうか、上でも書いたように不穏当なのは好きじゃないです。もっと洗練する余地は、当然あるでしょう。けれどこういうデモにおいてさえ「反日上等!」を言う人が一人もいてはいけないというのなら、「日本の利益にならない」当事者を公に擁護する回路がなくなってしまいます。「純粋な犠牲者」になれない「外国人」は、完全に公的言論から不可視化されます。

私は昔、小学校の卒業式で君が代を学年ぐるみでボイコットしたことがあります。首謀者は学年のリーダー格だった女のコでした。君が代やその強制に反対するときの通常のロジックとは違う、しょうもない、しかし子どもたちにとっては切実な理由で、彼女らは自分が「もう決められたこと」に反抗するすべを持っていることを示す必要がありました。「もう決められたこと」の象徴として選ばれたのが、国旗国歌法制定を経てその年から突然式辞に書き込まれた「国歌斉唱」だったのです。
その頃私は「中国人」という自認を捨てた直後で、こと日本と中国の国歌は歌うことが帰属の表明として受け取られてしまうのが嫌だったので、もともと一人でも座っているつもりでした。そこにボイコットの話が降ってきたので、これ幸いと便乗しました。悪意ある呼称としての「反日」という語がまだ広まっていなかった頃のことです。彼女は「うちら、非国民だもんね」と笑って、それがそのまま私たちのキャッチフレーズになりました。その時、私にはまだ永住資格がありませんでした。
軽いなオイ、あたしなんて文字通り「国民に非ざる」んだけど?って、思いました。けれど、とても心強く感じたのも確かです。私はそこらの日本人よりずっと社会に貢献して、日本そのものを批判するなんてことは絶対にしないで平穏に暮らさなければ、この国にいられないんじゃなかろうか。ある日突然、お前はここにいる資格がないって、言い渡されるんじゃなかろうか。在留することそのものがそうやって「重く」のしかかりがちな「外国人」にとって、「非国民だっていいじゃん!」というあっけらかんとした言葉は「そうだよね、うちらだけ一生懸命いい子ちゃんしなきゃいけないとか変だし!」と勇気づけられるものにもなります。さっき「重みを持っている」と言ったのと矛盾するようだけど、どこをどう取ったって「軽い」言葉が、その軽さゆえに当事者を救うことだってあるのです。

私はいしけりあそびさんがや「反日上等!」から距離をとることも、彼がWebでの議論から撤退することも、批判する気はありません。外国人事件に多く携わる弁護士であるところの彼は、少しでも「過激」な人たちとのつながりを疑われたらそれを口実に彼の依頼人が強制退去させられかねない立場にいます。当事者の「善良さ」を訴え、「過激」な人たちとは無縁の「普通の人」であることをアピールして一般の人の同情を得ることがその人を救う近道であるのならば、その路線を取ることはまったく正しいのです。「真面目でない」外国人を支援するときは別のロジックを使う、と彼は口にしていましたし、実際にそうした当事者と幾人もかかわり、怒りや罵声に耳を傾け、支えてきたのでしょう。私はそれを信頼し、支持します。何か、私えらそうだな。
けれど、彼に便乗して「反日上等!」を非難している人たちには、言いたいことがあります。当事者でも直接の支援者でもないからそんなことが言える。その通りです。けれど、「安全圏」にいるということは自らや支援対象者を人質に取られた人よりも、自由に動けるということです。安全な位置にいられる人こそが率先して、「かわいそうな犠牲者」になれない、「反日的」に見えてしまう人がこの社会に生きることと、向き合うべきではないのですか。「反日上等!」は、その一つのやり方です。向き合って出した答えが「反日上等!」でなくても構いません。「反日上等!」ではない、あなたなりの声を上げるべきではないのですか。「外国人問題」に対する「世論」を形成する一人一人であるところの、「一般」のマジョリティであるあなたこそが。「外国人」が「犠牲者」としてふるまうことを余儀なくされ、支援者が口をつぐまざるをえない現状は、そうした働きかけがあって初めて、動いていきうるのだと思います。
もちろん、志を同じくする人々が運動論として批判しあうのはあってしかるべきだ、というのは言うまでもありません。

あの時彼女が発した「非国民」は軽々しくて、幼稚だった。けれどそれが10年を経てもなお、重奏低音のように私の中に響きます。今、「外国人」にとって重大なリスクとなってしまう「反日」は、軽く名乗ったり、笑い飛ばしたりできるものに書き換えていかなければなりません。「反日上等!」は、投げかけられたレッテルのとらえなおしであると同時に、「反日的」と名指された最も困難な他者と共に生きる覚悟の表明でもあります。それはマイノリティを一方的に名付け、仕分けし、包摂と排除を行う構造的差別を、少しずつ解体していこうとする企てです。私たち*2「安全圏にいる人」だからこそできるし、やる意味があるし、やらなければいけないことなのです。
「反日」は、軽くて重い。

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*1 肩書きや属性ではなく意見の中身だけが重要だとおっしゃられるかもしれませんが、この問題に言及する以上ポジショナリティを無視できないのは、「反日上等!」や「日の丸ウンコ」を批判する人が「『反日』という語を安易に持ち出すことによって、持ち出した本人ではなく背景にいる外国人が、それを口実に(ことによっては命にかかわる)リアルな不利益を受ける」という、まさにポジショナリティゆえの恐れを問題にしている時点で、自明だと思います。
*2 入っていい?いいよね?
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テーマ : 在日特権を許さない市民の会 - ジャンル : 政治・経済

タグ : 外国人 レイシズム 在特会 反日上等! 共生

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 |  2009.07.11(土) 06:52 |  |  【編集】
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 |  2009.07.11(土) 07:04 |  |  【編集】
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 |  2009.07.11(土) 07:25 |  |  【編集】
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 |  2009.07.11(土) 07:55 |  |  【編集】
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 |  2009.07.11(土) 09:11 |  |  【編集】
読ませて戴きました
あなたが少しでも日本が嫌で日本人に対して反感を持つので在れば中国に戻るべきだと思います
生まれ育ったのが日本で帰化し既にあなたが[日本人]であろうと、あなたが漢民族で在るのは変わらないし
日本は「日本人」の国だからです

そもそも日本に住んで居ながら日本が嫌いだと文句をつけてくる様な[外国人]に元々日本に住んでる日本人が好感を持つ訳が無いのは当然でしょう
日本が嫌なら祖国に帰れば良い

それと
反日を取るに足らない事にするべきだと言っていますが
それは:日本人の祖国に対する誇りを捨てろ:と言ってるのですか?
傲慢な漢民族らしい考え方と言わざるを得ない
日本人から言わせてもらえば「外国人が日本の事に口を出すな」の一言に尽きます
あなた方のお仲間が祖国に帰ってどんな辛い思いするとしても、だからといって日本に寄生するのを許すと言うのは別問題です
祖国は辛いから嫌だけど日本だったら食いっぱぐれる事は無いから日本に居る、けど日本嫌~い、なんて常識的に考えてあり得ません
日本、日本人に対しての反感も無く犯罪も犯さないで初めて日本に住める様にするべきなんです
安易なグローバリズムから国が破綻する、日本の数年後の姿でしょう
日本人ですが |  2009.07.19(日) 11:02 | URL |  【編集】
>>日本人ですが
日本には思想・言論の自由があるのでそれが嫌なら
出て行くか体制を変えるかすべきですね。



本論としては深海魚殿に賛成。
特に日本はアメリカと違って社会システムと
民族と文化もろもろが全部日本というくくりにまとめられてしまって、宗教的にマイノリティだがアメリカの自由を誇りに思う、というようなことが出来にくい状態。

不満は一切禁止というのが暴論である以上部分的批判≒反日という部分が出てくるのはもうどうしようもないい
日本人ですが |  2009.07.20(月) 02:41 | URL |  【編集】
●「日本人」「日本文化」とは?
まず、私の「立ち位置」は、右翼でも無く、左翼でもありません。もちろん、「ネット右翼」でも、「ネット左翼」ではありません。どちらかと云うと<反権力主義>で、現体制にいつも異議を感じている<反体制派>に近いと思います。(:繰り返しますが、何でも反対の「左翼」ではありません。)
・・・・・
深海魚さんの記を何度も読み返しましたが・・・、

私は、<日本人に、「純粋」なんて無い!
元を辿れば、皆、日本の列島に、どこから流入した者同士>(:<多民族国家>)と思っているので、

「ネット右翼」ブログ等で、何を今さら、(在日人を含む)現外国人を排他し、「在日」とか「特ア」など、レッテルを貼り、ことさら、日本において、<陰謀し、暗躍している>ごとく、繰り返し書き込みがあるのか?不思議で仕様がありません。

以下は、ここ半年ほど、私の頭の中で、繰り替えされている「疑問」です。

・・・・

<国を守る>と云う集団意識は、「遺伝子の意識」から来るのか?

何故、自国以外の他国を、<侵略するものだ>とし、<排他的>に考え、そう<決め付ける>感情は、どうして、起きるのか?

自己を守り、家族を守ろうとする 感情(本能?)が基本となり、地域(まち・むら)、(所属する団体・企業)、そして、国、民族を存続させたい、と云う感情となり、それが、「集団意識」となるのか?

「世界は一家、人類は兄弟」と云う(元々は、「右翼」の総帥<?>が発した)考え(スローガン)は、そのような「集団意識」としての感情からは、「理想論」でしか無いのか…?
また、「平和憲法(憲法第9条)」は、争いが絶えない世界の宿命の中で、単なる「理想(国家)」を世界に向け、謳っただけの「理想(文)」でしか、無いのか?

<国を守る>と云う感情(集団意識)は、<自己の遺伝子を残す為には、他をしりぞけないと、生き残れない>と云う「遺伝子の意識」(生命の自己存続意識?)から来るのか…?

・・・・・・・・・・

私は、日本に長く暮らしていて、一つの「日本」と云う国に帰属する意志を待ったなら、長くとも3代で、「日本人」と云って良いと思っています。
そうやって、元々「日本」と云う国:「日本民族」は形成してきたのです。

私は、「愛国」と云う名で、「日本」において、一枚岩になることは、却って、恐ろしいことと思います。
(ですから、「反日上等!」のスローガンを、一方的に退ける気持ちはありません。)

アジアにおける(また、広くアジア以外も含めた)文化の<多民族国家>として、「開かれた国家」になっても良いと思っています。

古代より、「外国人」「外国文化」を取り入れ、そして、じっくりと醸し出したのが、今ある「日本人」「日本文化」と思っています。
今一度、現在の日本は、「開国」し、新たな「日本文化」「日本人」を形成しても良いと思っています。
mohariza |  2009.07.20(月) 12:27 | URL |  【編集】
●やっとお返事します
えー、遅くなりまして大変申し訳ありません。

>コメント非公開の方
新しいエントリのほうで応答させていただこうとも思ったのですが、私の見解だけが一方的に公開されるのはどうもアンフェアになってしまう気がするので、何か他の形で応答させていただこうと思います。
ちょっと時間がかかってしまいそうなのですが、気長にお待ちいただければ助かります。

>日本人ですがサマ
>あなたが少しでも日本が嫌で日本人に対して反感を持つので在れば中国に戻るべきだと思います
生まれ育ったのが日本で帰化し既にあなたが[日本人]であろうと、あなたが漢民族で在るのは変わらないし
日本は「日本人」の国だからです

日本で我が物顔をする資格があるのは(「日本国民」ではなく)、あなたが思うところの「真の日本人」だけである、ということでしょうか。そして、私はそこには入らない、と。私が「誰」で、どこに「戻る」ものなのか、「日本人」であるところのあなたは一方的に決定することができるわけですね。
あなたは「民族」を「●●人」の条件に掲げますが、別にそこに何の根拠もありませんよね。ていうか、民族と人種の区別、付いてないでしょ。その社会における多数者は、「民族」だろうが「出生地」だろうが「文化」だろうが「言語」だろうが、それぞれがもっともらしい資格を好き勝手に設定します。それをマイノリティに当てはめ、相手の属性を決めつけることで、「そうじゃない普通の私たち」のアイデンティティを形成しているんです。そして、実践を通して、その行為を独占できる立場を維持し、マジョリティの権力をより一層強固なものにする。
お気づきでないんでしょうが、まさに私が今回とその次の記事で批判している、その通りのことをあなたは行っています。

あのね、中国の人たちも同じことしますよ。私がご助言に従って中国に「帰った」ところで、そこでも私は周縁的な位置にいることは変わりありません。「真の中国人」たりうるかどうか値踏みする目で見られ、お眼鏡にかなわなければ「お前は(もう)中国人じゃない」「日本人だ」と言われることでしょう。ていうかとっくに言われました。
私に帰るべき祖国なんて、ないんです。この地球上のどこにも。

>反日を取るに足らない事にするべきだと言っていますが
それは:日本人の祖国に対する誇りを捨てろ:と言ってるのですか?

いいえ違います。「外国人」(本人の自認にかかわらず、そうきめつけられた人)が「反日」と呼ばれることがその人の生活にとって重大なリスクになっちゃうなんてばからしい、と言っているんです。レッテル自体が誤りに満ちているというのと、そもそもたまたま「自分は日本人だ!」と信じていられる立場に生まれたというだけで、「そうでない人」を一方的に「受け入れるべきか、追い出すべきか」と値踏みできること自体変だよね、という二つの意味で。
「反日」はいないか、早く見つけて追い出さなきゃ、と常に不安にさいなまれながら排除を繰り返さなきゃ保てない程度のちっぽけな「誇り」なら、そんなものはどぶにでも捨てておしまいになれば、とは思いますけども。

>もう一人の日本人ですがサマ
フォローありがとうございます。
>日本には思想・言論の自由があるのでそれが嫌なら
出て行くか体制を変えるかすべきですね。

いや、まったくもって(笑)

>moharizaサマ
実は私は、「左翼」と呼ばれるならそれでもいいや、って思いはじめてるんですが(笑)

>私は、<日本人に、「純粋」なんて無い!
元を辿れば、皆、日本の列島に、どこから流入した者同士>(:<多民族国家>)と思っているので、

「ネット右翼」ブログ等で、何を今さら、(在日人を含む)現外国人を排他し、「在日」とか「特ア」など、レッテルを貼り、ことさら、日本において、<陰謀し、暗躍している>ごとく、繰り返し書き込みがあるのか?不思議で仕様がありません。

人類はみなアフリカのママから生まれたんですよね。
ところで、「純粋」がたとえありえようと、排外主義がダメなことに変わりはないと思います。「純粋である」ことは「純粋であるべき」ことを保証しません。ああ釈迦に説法。

>自己を守り、家族を守ろうとする 感情(本能?)が基本となり、地域(まち・むら)、(所属する団体・企業)、そして、国、民族を存続させたい、と云う感情となり、それが、「集団意識」となるのか?

「世界は一家、人類は兄弟」と云う(元々は、「右翼」の総帥<?>が発した)考え(スローガン)は、そのような「集団意識」としての感情からは、「理想論」でしか無いのか…?

自己防衛からはじまって、守るべき「私たち」の範囲が「国」や「民族」にまで自然に拡大されるなら、どうしてそれ以上広がらないのか、それこそ「不思議」ですよね。実際には恣意的に区画された「私たち」を自然な範囲だと思わせる様々な装置が働いて、社会を構築しているわけです。「家族」も「国家」も。
スローガンは笹川良一さんでしたっけ。個人的に「家」に喩えるのはあんまり好きじゃないんですけどね。「家長」は一体誰ですか?
深海魚 |  2009.07.27(月) 18:34 | URL |  【編集】
●「返事」を読んで、考えました。
<自己防衛からはじまって、守るべき「私たち」の範囲が「国」や「民族」にまで自然に拡大されるなら、どうしてそれ以上広がらないのか、>・・・。
人間は、より身近な存在を「味方!」、それ以外を<敵(異物)>と考える(感じる)のでしょうか…?
「不思議」ですが、現実で、
「理想(理念)」の<世界平和>(人類は「同じ」(兄弟))と云う概念は、地球の人間とっては、<観念>だけととして、本気で考えて無いのでしょうか・・・?

このスローガンは、(最初に唱えていた人がいたと思いますが、)笹川良一さんが、昔、日本でうったえていたものです。
当人に仕事上、横から間近に見たことがありますが、本人は、純粋にそう、思っていた、と思っています・・・。
どうも、<「家長」は一体誰ですか?>と、邪推しがちですが、
このスローガン(言葉)は、そのままに聴かないと、その<純粋さ>が、無くなると思います。
mohariza |  2009.07.31(金) 20:54 | URL |  【編集】
●お返事というか、つぶやき
>人間は、より身近な存在を「味方!」、それ以外を<敵(異物)>と考える(感じる)のでしょうか…?
>「不思議」ですが、現実で、
>「理想(理念)」の<世界平和>(人類は「同じ」(兄弟))と云う概念は、地球の人間とっては、<観念>だけととして、本気で考えて無いのでしょうか・・・?

ひとがどこまでを「より身近な存在」と考えて、どこからを「それ以外」と感じるか、という境目は歴史的に揺れ動いてきた、また今も揺れ動いているはずです。その境目は、マイノリティの包摂と排除によって、常に現に、作られつづけています。だから、どこまでが「自然」とか「本能」とか、言うことはできないと思います。
たとえば、父親+母親+子ども、の「家族」だとか、現在私たちが思い浮かべるような形の「国家」とかを「私たち」として区切るのは、近代になってやっと出てきたあり方です。
人間が社会を形成する生き物である以上、どこかで「外部」を必要としてしまうのではないか、とは思っていますが、今ある線引きを自明視する必要はないのですよ。「世界平和」は固定された形でゴールとしてあるというより、そこに向けて常に線引きを疑い、問い直す営みの中で近づいていく物だろうと思っています。営みをあきらめないためにも、「世界平和」は本気にされなければいけません。

>どうも、<「家長」は一体誰ですか?>と、邪推しがちですが、
>このスローガン(言葉)は、そのままに聴かないと、その<純粋さ>が、無くなると思います。

すみません、性格が曲がっているもので(笑)
どうも、「家」や「家族」を聖域や素晴らしき愛の場であるようにとらえる考えは、比喩であっても苦手でして;
深海魚 |  2009.08.04(火) 13:28 | URL |  【編集】

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2009/07/25(土) 16:46:49 | 今夜の焼きザカナ
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