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2009年01月22日(木)

「0点」でも高校へ!の意味 

asahi.com:知的障害者も普通高へ-マイタウン愛媛 (魚拓
痛いニュース(ノ∀`):「入試問題を知的障害者でも解けるよう変更して」 知的障害者も普通高校へ…配慮を求め要望書提出

知的障害者が県立の普通高校へ入学できやすくするよう特別の配慮を求める要望書を15日、知的障害者の家族会が県教委に提出した。入試の問題を知的障害者でも解けるように一部変更するなどの特別措置を求めている。

要望したのは「愛媛・知的障害児の家族と理解者の連絡会」(白石勇代表)。県教委によると、知的障害者も県立の普通高校を受験できるが、現在は入試の筆記試験の得点への配慮はしていない。ただし、知的障害者の受験者は「特別措置願」 を提出し、別室での受験や中学校の教師が介助者として入試に同席することなどは出来る。

しかし、同会は「知的障害者に中学時代の仲間がいる地元の普通高校へ通わせてあげたい」 として、入試の際は、筆記試験の内容を記述式から選択式にしたり、課題を与えられて書く作文に自分の受験に対する思いを書いてもよいようにしたりするなどの特別措置を求めている。

…いやまあなんつーか。「痛い」ものとして取りあげられているニュースそのものより「痛いニュース」自体の方が痛い、ってのはいつものことではあるんだけどさあ。

【More・・・】

こちらで、要望を出した当人たちの声を見ることができる。

その後マスコミ各社の取材を受けました。中でも一番ひどかったのが、ある新聞社の質問でした。

 「特別措置の中身は、県立高校の合格点を下げて入学させてくれということなのですか。」と。

  こういう質問には参加者が戸惑い、うまく応えられませんでした。逆差別と

か合理的配慮とかというものは、このようにとらえられるのかと思うと、少しだ

け疲れるものがありました。そこでやはりこのような質問をしてくる方には、

 『いやそうではなく、0点でも高校へ入れてください。』と言うべきだと思いました。

けれど、この「0点でも高校へ」が持つ意味が、あまり理解されていないのではないだろうかと、ネット上での反応を見て思った(参考:この記事へのはてなブックマーク)。といっても、あたしもたいして知っているわけではないのだけど。
なお、以下で紹介している本はどれも、現物が手元にないため引用は正確ではない。うろおぼえなので、もしかしたら何がどの本に書かれていたか自体も勘違いがあるかもしれない。何かお気づきの方は、ツッコんでいただけると助かります。

「0点でも高校へ」――このことば自体は、今回ぽっと出てきたものではない。
日本では子どもたちには教育を受ける権利があり、国民には(文字どおり、国民には)自分の子どもに普通教育を受けさせる義務を負っている。しかし障害のある子どもは、就学猶予や就学免除というかたちで学校から排除されてきた。1979年に養護学校が義務教育となることでそのような例は減ったが、今度はそれがあたかも「養護学校に通わせる義務」と化してしまい、普通学校への入学は拒まれつづけてきたのだ。その中で、1981年に障害児を普通学校へ・全国連絡会が誕生する。障害児はそうでない子どもと別々のところで生まれ、生きているのではない。ならば、かれらが学校教育で隔離され、同世代の子どもたちの中に存在しないもののように扱われるのは、おかしいじゃないか?共に生き、共に学ぶ権利があるはずではないか。本来いるはずの子どもたちが「いなかったこと」にされてしまっている中で教育を受けるのは、「健常児」にとってもおかしなことだ。その思いによって運動が展開され、義務教育の中では本人や保護者がのぞめば普通学校に進学できる権利が、少しずつ勝ち取られてきた。
しかし、障害児・者はなにも義務教育の間だけ生きているわけではない。それから先も、この社会の中に存在し、暮らしつづけている。70年代半ばには、すでに高校進学率は90%をこえ、中学校を卒業した子どもの行き場所が高校であることが当たり前になった。それならば、中学を卒業した障害児もまた、高校が行き場所となるべきだ。「隔離」を否定するなら、当然そうなるしかない。そこで、「障害児」を高校へ!という運動もまたはじまっていくことになる。障害のある生徒の進学が可能になるよう、入学試験での特別措置や学校設備の整備を求める一方で、入学を認めない学校に「自主登校」するなどしてたたかいは繰り広げられてきた。いわゆる知的障害児も同様だ。「0点でも高校へ!」は、その中で生まれたことばである。

ぼく高校へ行くんだ―0点でも高校へぼく高校へ行くんだ―0点でも高校へ
(1989/02)
佐野 さよ子

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今回のニュースに対する一連の反応の中には、「何のための入試だと思ってるんだ」というものがある。これは、ある意味鋭い。「特別措置の中身は、県立高校の合格点を下げて入学させてくれということなのですか。」に対し、「いやそうではなく、0点でも高校へ入れてください。」と答える、というのは、「学力」による選別を前提とした上で「オマケ」してもらって特別に「入れていただく」ことを望んでいるのではない、ということだ。そうではなく、高校入学は「学力」によって選別されるべき、ということ自体を否定しているのである。「何のための入試」なのかわかっていないのではなく、むしろわかっているからこそ、その「何のため」を無効化しようとしているのだ。あるいは、

自分でできない部分はいろいろ補ってよいことになっている。手が動かなくて鉛筆が持てないなら、その代わりの手段を使うのは当然だろう。なら、頭がうまく動かない人が別の人の頭を借りて試験の答案を書いたってよいではないか。

連載第4回 自分のことは自分で、か。

ということでもある。そこには当然、「能力」を反映するとされる「学歴」によって人をより分け、序列化していくこと、そのような機能を学校に期待する社会そのものへの批判が含まれることになる。

もちろん、それに対して批判はある。
横田弘は言う。0点「でも」高校へ、というのは結局、入試制度の存在を前提にした物言いにすぎないのではないか。たとえ要求が通ったとしても、それは選別が当たり前とされる社会の中に、選別ありきの「共生」として組み込まれてしまうことになるのではないか。否定するべきは入試という名の選別そのものではないか、と。それに、障害者は学校を卒業したあとも生きていく。そして一人のひとにとって、10代の若い時間は一度きりのかけがえのないものだ。ならば、本来人生の一通過点でしかないはずの「学校」にこだわり、その貴重な時間を、入学を頑として認めない学校への自主登校で5年、6年と消費させてしまうのはかえってその子のためにならず、親のエゴなのではないか、という。

否定されるいのちからの問い―脳性マヒ者として生きて 横田弘対談集否定されるいのちからの問い―脳性マヒ者として生きて 横田弘対談集
(2004/01)
横田 弘原田 正樹

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先に紹介した全国連絡会の世話人でありながら、ダウン症の娘・星子さんを養護学校に通わせた最首悟は、「現行の普通学校も養護学校も拒否します」という。自分の求める「普通学校」は星子さんや子どもたちひとりひとりが生き生きと通えるようなもので、今あるそれではない。現行の普通学校に組み込まれるのではなく、あるべき普通学校をつくりましょうよ、と。もしかすると、それは個々への配慮をベースとした「養護学校的なもの」こそを教育における「普通」、スタンダードにしていく試みになるのかもしれない。

星子が居る―言葉なく語りかける重複障害の娘との20年星子が居る―言葉なく語りかける重複障害の娘との20年
(1998/05)
最首 悟

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もちろん、今ある普通学校に障害――とくに知的障害――をもつ子ども一人一人に合わせた学習を保障し、卒業後の人生を設計する能力が不足していることから、分離教育を支持する声もたくさんある。けれど、「普通学校」自体をつくりかえようとするものであっても、「普通学校」が決して理想的でない現状の中で生きていくためのベターな方法をさぐるものであっても、こうした批判は決して、現行の普通学校を肯定してはいないということだ。まず普通学校が理想的でなく問い直しを必要としていることを脇において、今のあり方を所与としたまま、これらの批判を逆手にとって「だから普通高校にこだわるな、養護学校に行け」と「健常者」の側から言ってのけるのは、欺瞞だ。

…じゃあどうすればいいのかといわれると、いきなり歯切れが悪くなってもごもごしてしまうのではあるけれど。
というのも、あたしはかつて、何をやらせてもトロくさく、からだもとても不器用で、集団にあわせて動くことのできないどうしようもない子どもだったのだ。まあ、子どもじゃなくなっても、どうしようもないことに変わりはないけど。それでも同年代にくらべて少しばかりむずかしいことばを知っていたのと、小理屈をこねるのだけは少々得意だったので、入試と成績による選別を内面化することで「あたしだってダメじゃないもん、できる子だもん」と、ちっぽけなプライドを守ってきたからだ。そして今では、そうやって得た「それなりの学校の学生」という立場を利用して、さらに入試制度に加担することで糊口をしのいでいる(アルバイトで中学受験生の家庭教師をしています。もうすぐ本番!)。そんなあたしに、いったい何が言えるだろうか?
もちろん、現状が正しいとはまったく思わない。思わない、けれど。ぐるぐる。

■そんなわけで、未消化で中途半端な文章になってしまいましたが。良い関連記事を見つけたので、トラックバックを飛ばしてみます。どぎどぎ…じゃなかった、どきどき。
知的障害者をめぐるお題ふたつ (追記アリ - 鰤端末鉄野菜 Brittys Wake

【追記】
教え子の最後の追い込みに遅くまでつきあって、帰ってきてみたらいつも暇そうなカウンターさんが今日はなぜかくるくるとよく働いているなっと。
…はてなこあい。もうね、あたしのチキンハートがクチュクチュしちゃうの><
今読み返してみると、いろいろ言葉足らずな部分が見受けられます。幅広い射程を持つ障害学や障害者運動の議論の中の、狭い意味での学校教育と入試にかかわる部分にしか触れられなかったので、あくまで問題の一側面のみを説明した記事だと思って読んでいただければ幸いです。

いただいたブックマークコメントの中から、いくつか選んでお返事しておきます。
はてなブックマーク - 今夜の焼きザカナ 「0点」でも高校へ!の意味

Britty 教育, 障害, 被言及 ああ、少しわかった。業界用語/スローガンなのか。それはでも外部には通じないよねえ。/引用「別の人の頭を借りて試験の答案を書いたってよいではないか」は賛成できない。/メタブへ続く。/※欄……。

リンク先は会員向けの活動報告ページのようなものかと。そこに外部へのわかりやすい説明を期待するのは無理筋ではないでしょうか。id:y_arimさんがすでに指摘されているように、今回はたまたまネットユーザーが騒ぎ立てて事が大きくなっちゃっただけだし。

mobanama 教育, 社会 背景はある程度わかったがやはりアプローチとしては賛成できない。改革すべきところはそこ(入試)じゃないだろうに、そこばかりに焦点を当ててどうする。その「向こう側」の制度整備の部分じゃないのか大事なのは。

私の記事では触れられなかっただけで、障害者運動で積み上げられてきた議論は幅広いですよ。入試に限った話では、もとよりありません。「向こう側」にある学校を、ひいては社会を構成する、そしてある意味では象徴するものとして入試がある以上、そこ「も」焦点になるのは自然なことです。

y_arim 「普通のひと」はそういう「前提自体の問い直し」に考えが及ばないのではないか。彼らは現状で問題なく過ごしているし、社会を運命論的に捉えている/id:Britty いや、今回はネットユーザが勝手に騒いだのでは?

少なくとも学校や入試に関していえば、児童・生徒として何らかの理不尽さを感じたことのある人は多いと思うんですけどね。今回の要望が撃とうとしているものは、それらと地続きのはずなんですが…卒業したら「あの時いやだと思ってたことにも、みんな意味があったんだ」って納得しちゃうのでしょうか。運命論を受け入れられないのは、未熟で幼稚だとか思ってそう。

ryokusai education いづれ社会を担ふ子供をどう遇し、何を期待するかといふ意味で学校教育は不断に問ひ直されていいが、具体的な腹案もなしに「共生」のお題目で今の枠組みに押し込むだけなら色々な意味で無責任といふほかない。

いかに「共生」していくかを考える責任は、告発者だけでなく社会の全ての人にあります。というか、学校というものの社会における位置づけにかかわる問いが、「今の枠組み」を変えずに済ませられるわけはないと思いますが。

kilrey 社会 「普通高校」は手段ですか、目標ですか。

そりゃ、手段でしょう。で、他の同世代が当たり前に取れる手段がはじめからふさがれていることが、問題になっているわけですが。

aozora21 Ⅲ教育 高校が義務教育になれば高卒ということに特別な価値はなくなる…養護学校から高校へを実現するとはそれに近いことで、そこで改めて養護学校から高校進学とは何を求めてのことなのか問い直さざるを得ないか…

他、高等学校の義務教育化に疑義を示されている方へ。
高卒に特別な価値は、とっくになくなっていると思います。M.トロウによれば、進学率が50%を超えると高等教育はユニバーサル・アクセス段階に入り、万人に広く新しい体験を提供するものへと機能を変化させます。行くことで自らの価値を高めて他との差異化を図るのではなく、行かないことが特別な不利益になってしまうのですね。
高等学校は高等教育ではありませんが、同じ議論が適用可能でしょう。今の日本の高校進学率は、97.6%だそうです。その全員が卒業するわけではないとはいえ、実質的に義務教育化しているといっていいでしょう。入学を求める声はその上で出されている、ということを踏まえておく必要があります。

shidho 教育, 社会, 障害 試験で選抜しているのは学校だけではない、ということはもしかして忘れてはいけないことなのかも。

はい。そして、選抜は「試験」でだけ行われているわけでもありません。

angmar うんまあ、究極的にはこういう話をせんといかんのだろうとは薄々思ってたけど詳細な説明どうもです/で、これ究極的には学歴社会を否定しないとどこまで行っても同じ話が起きるよ。職場でも共生、とか。

「学歴社会を否定」どころか、能力主義否定くらいまで射程内かと思われます。今回の親御さんたちの要望がどこまで含んでいるかはわかりませんが、議論としては(それへの批判も含めて)すでにあります。

kiku-chan 普通高校進学でも、手に職を付ける方策があればよいのかな?そのまま推薦で大学進学とかになったら悲惨だ。底辺の大学では高等教育の名の元に放置されているようにしか見えない、知的ボーダーと思しき学生を見かける

あー、これはありますよね…塾講師をやっている友人から、知的ボーダーらしき生徒を、いわゆる底辺大学に合格させた話を聞いたことがあります。底辺大学ほど、学力も意欲もバラバラな学生が集まっていて、きめ細かに対応しようにもおっつかない状況ということでしょうか。
ただ、問題は大学に進学したこと、ではなく、放置されていること、だと思うのです。もしくは、「大学に行かなければならない」という圧力そのものか。最近、発達障害を持つ学生(といっても、アスペルガーが主ですが)の支援をしようという大学も増えてきましたけど、どうなんでしょうね。

Cibo *column, 社会 選別を前提とした社会で育った身としては中々に首を突っ込み難い領域。と言うか、この記事で言われている程このお話の枠組みは小さくない。

おっしゃるとおりです。ただ、資料が手元になく知識も足りない中でこれ以上踏み込むのは、どうにもためらわれて…結果として、私は問題の矮小化に手を貸しているのかもしれません。

popolonlon3965 社会, 学校・教育 こういう考え方をしたことが無かったので新鮮だった。/でもこうなると「0点でも」は普通の人にも言えて、じゃあそこで高校はどうする、高校に行きたい人はどうする、ってなると一周して戻ってきちゃう気がしないでも
narwhal 教育, 社会 うーん。全入ではなく、障害者への特別措置を求めるのがやっぱりよくわからない。健常者(として扱われている)の低学力生徒についてはどう考えているんだろう

だからこそ、横田さんの批判が成り立つのだと思います。加点ではなく「0点でも」というのは障害児同士の間に「能力」による選別が持ち込まれるのを拒絶しているのだと思いますが、「健常児」の中の選別をそのままにしといては片手落ちだろう、と。「健常者社会」で選別が当たり前とされているかぎり、「共生」はその中に「劣ったもの」として取り込まれることにしかならず、差別は続く、と。
たしか彼は、同じ理由で「ノーマライゼーション」を懐疑していたように記憶しています。

inumash 社会, 教育, 福祉 「教育」の先には「労働」がある。日本に「サムハル」のような企業があれば、この“「0点」でも高校へ”という言葉は更に重要な意味を持つことになると思う。http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20090114/182649/?P=1

日本でも、不十分ながらこうした取り組みは始まっているようですね。けれど、その意義は認めた上で、それ「だけ」では足りない、と言わなければいけないと思います。
働きたい人が働けること、働いて生活できるだけのお金を稼げること、はもちろんいいことです。しかし、それらの実現を求めるのと同時に、「教育」の先に当然あるとされている「労働」を問い直していく必要があります。生きるための「手段」でしかないはずの「労働」が、人間の価値そのものみたいになってしまっているのが今の世の中なので。
「寝たっきりの重症者がオムツを替えて貰う時、腰をうかせようと一生懸命やることがその人にとって即ち重労働としてみられるべきなのです」by横塚晃一

Mossa コメント, 社会, 教育 養護学級が「隔離先」になってるとか、現状の学校教育システムを見直すのはあっていいと思うけど、これは人の違いを埋め合わせる発想じゃなくて、人の違いを見ないふりする発想じゃないのかなぁ。それはどうなのよ

現状の普通学校は、「普通」とされている人の違いを見ないふりする発想ではないのですか?「違う」ひとが中に入ってゆくことで、それまで隠蔽されていた違いが顕在化することもあるはずです。

はてなブックマーク - はてなブックマーク - 今夜の焼きザカナ 「0点」でも高校へ!の意味

letterdust 「クィア」の問題に似てる気がする。

かもかも。ぴーたん。

kamezo 教育, 文化, 共生, 格差, 議論, 責任の所在, リテラシー, コミュニケーション 高校全入どころか、現在の教育/療育/能力/評価観などの根本的な解体と再編に向かう主張(叫び?)。しかし無自覚なのか明言を避けているのか明確に言語化されず、そのために、当事者外には誤解を呼ぶ、という図か?

まず、だれもがアカデミックな物言いを理解/実践できなきゃいけないわけじゃない、というのは前提とした上で。
いやな話ですが、明確に言語化された場合、理解を得られるどころかよりいっそう反発されるのではないか、と思ってしまいます…「論理ばっかりで現実をどうこう」とか、そういうのまでつけくわわりそう。

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テーマ : 発達障害 - ジャンル : 学校・教育

タグ : 教育 障害 高校

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Comment

●愛媛ネタなので。
知的障害といわれる人がなぜ養護学校へ隔離されるかを考えれば結論は出ると思います。
知的障害者は一般の学生と同等に集団生活を営むことが困難であるからこそ養護学校へ隔離するのです。
仮に100人に1人が知的障害者であるなら、残り99人の学生生活を守るために1人を犠牲にするのです。

私の通っていた幼稚園に知的障害者がいましたが、日常的に教室にツバを吐き捨てるなど迷惑行為がすごかったのを覚えています。
知的障害ではありませんが、耳がやや不自由なクラスメイトが高校のときにいましたが、その1人のためだけにいろいろと気を使い時間を費やしました。
これが先天的であってもなくても、本人に悪意があってもなくても、結果として不便な高校生活を余儀なくされました。
このような周りの迷惑を考えれば隔離は当然ではないでしょうか
愛媛県人 |  2009.01.28(水) 23:03 | URL |  【編集】
知的障害者が高校へ行けるようになっても、大学へ行けるようになっても問題は解決しません。

知的障害者の居場所が社会に存在しないのが根本原因なので中学(高校や大学)を卒業した知的障害者の居場所が皆無なのです。
中学を卒業して、何もする事のない障害者の問題を3年間だけ先延ばしにしたいだけです。
Deki |  2009.01.29(木) 00:51 | URL |  【編集】
●コメントありがとうございます
>愛媛県人サマ
失礼ですが、あなたと一緒にされてしまうと「99人」のうちの他の98人にとっては非常に不本意なんじゃないでしょうか。少なくとも私は、小学校のクラスにいた障害のある子(リタリン飲んでたので、多分ADHD)を、いなくなって欲しいなんて思いませんでしたけど。
それはともかく、障害のあるひとが隔離されるのは「犠牲」であると、「本人のため」といえるようなものではないと、お思いなのですね?

誰かを現に犠牲にしてまで避けられるべき「迷惑」って、何なんだろうと思います。私には、自分がそうまでして快適に過ごさせていただくような価値があるとは思えませんが。

>Dekiサマ
もちろん、高校「だけ」、大学「だけ」では問題は解決しません。言うまでもないことです。
「社会」の中に知的障害者の居場所がなく家や施設(これさえ、入れるだけマシ、になってしまうことがままあります)に隔離されてしまうことと、「高校」の中に居場所がなく特別支援学校に隔離されてしまうことはひとつながりの問題です。少なくとも、そのようにとらえられています。70年代、80年代の障害者運動の言説を見ていただければわかるように、地域の学校に通うことと地域で生きていくことは、切り離せないものとして要求されてきました。「学校」は「社会」と独立して存在しているわけではないのです。

念のため付け加えておきますと、特殊教育(今の特別支援教育ですね)が、卒業生が「何もする事のない」状態にならないよう、将来的に職をえて地域で生きていくことを目標にすえてさまざまな取り組みをおこなっていることは私も知っていますし、その意義はとても大きなものだと思います。一概に統合教育を支持する、とは言えません。
深海魚 |  2009.01.30(金) 00:39 | URL |  【編集】
この問題はとても難しく矛盾をはらんでしまうものだと思います。

99人の健常者の迷惑をの為に1人を犠牲にすることを否とする場合、逆にその一人を入れることによ利迷惑を受ける何人かを犠牲にする、ということにもなりえます。

たしかに、高校は今義務に近いものがありますが、それでもやはり、その分野に進みたい学習したいという意図をもって高校に入る人もいます。もしその中へ授業の妨げになることを回避できない程度の障害をもった人が入校した場合、結果的にその他の多数の学習機会をその一人の為に妨げている状況が起きうるのです。

では、そのようにハイレベルな勉学を主目的にしていたり、技能の取得を目指しているところに入れなければいい、となると結局はそれは養護学校に隔離されているのとかわらず、ハンディを持った人たちだけを集めたものからハンディを持つ人と学習意欲の低い人をまとめて隔離しているにすぎない状況になりえます。

また、年齢も問題で知的障害者による健常者への暴行事件(またその逆も)等の危惧も考えないといけないと思います。
たしかに知的障害を持った方は無垢のようにみえ天使のように扱う人もいますが、
あくまで障害を持った人も一人の人間で、思考することにハンディを持っている点以外は人並に食欲もあり腕力もあり、そして性欲もあります。
ただ残念なことに後付けのものであるモラルなどは不完全なことが多々あります。
実際に知的障害を持たれた方からの身近な人へのそのような性的な行動はかなり多く見られほぼすべての施設や養護学校では職員に対して予防措置を行っています。
その危険をどこまで許容させるのか、もし起こってしまった場合はやはりその被害者を「犠牲」にしてしまうのかそのような点をもう一度考えてみてください。
名前のない子 |  2009.02.03(火) 11:52 | URL |  【編集】
●高校へ行く意味は?
気持ちはよくわかります。
他の人と同じように高校へ行きたい、と言う思い。

しかし高校へは何のために行くのでしょうか?
多くの人も特に理由なく、高校へ行きます。
しかし「高卒」ということで就職などに意味が出てきます。
(まあ皆が行くのでプラスはないですが行かないとマイナスなので)
でも障害者が0点で入れるなら意味はありません、付加価値がなくなりますから。
学業を学べるとも思えません。

結局行きたい、と言う理由が
「周りと同じようにしたい」
という日本人的な気持ちにしか思えないのです。
だから共感を呼ばないのだと思います。

私は現状の教育ですらすでに競争を否定しすぎていると思っています。
そのまま社会へ出れるならいいのですが現実の社会は競争の真っ只中にいるのですから。
もし日本全体を変えても世界を見ればそれですむわけには行きません。

悲しい話ですが偏見はダメですが差で別かれることは必要悪です。
ただ厳しすぎる社会はギスギスしたものになります。
どこで線を引くかは難しい問題です。
mastakos |  2009.02.03(火) 19:28 | URL |  【編集】
目標が遠すぎて、その遠すぎる目標に合わせた意見を打ち出してしまうから、大きな反発や理解を得ることが出来ないんじゃないかと思います。「戦争を無くす為には、すべての人間が武器を捨てればいい」と言っているように。

やはりここは、将来的には矛盾を孕む可能性があったとしても、もっと身近な目標に絞るべきなのではないかなぁと考えます。
例えば、現状は健常者にとって障害者の参加というのは、悲しいことですが、デメリットばかりが目立つという認識だと思われます。
そこで、「いや本当はデメリットなんてない。むしろ障害者を隔離する方に本当はデメリットがあるんだ」と主張するよりも、「いやいや、デメリットもあれど、実は障害者の参加もこれこれという(実用的な)メリットがあるんですよ」と主張した方が、何倍もの人間の賛同を得られるんじゃないかと。
そういった、いわゆる「名を捨てて実をとる」必要がまずはあるんじゃないかと思います。
ネモ |  2009.02.04(水) 07:58 | URL |  【編集】
愛知県人様のように文句を言いながらもケアしてくれるのは良いことだと思うのですが、専門技能をもたない未成年者が行うのには疑問です。
特殊な問題の解決に専門家のサポートが必要なのは当たり前で、専門の技能や資格が必要な行為を無資格の未成年者に行わせるのは犯罪や虐待です。
ケア行為が障害について適切な学習になるというのであればプログラムや指導教員が完備されていなければ無意味ですし、障害者の親たちはまず(費用を含め)プログラムを提示すべきでした。
このような視点から見れば障害者の親たちは学校に通う未成年者を虐待しようとしているとも言えます。
通りすがり |  2009.02.04(水) 13:19 | URL |  【編集】
高校の入試の存在そのものについて考え直すというのであれば,また全然違う問題になってきますね.
そこまでくるともう障害者の問題ではなく,国民全体に大きく影響する事になるから,知的障害者の家族会でどうこうできるレベルでは無いでしょう・・・

どんな人でも高校へ というのであれば,まず高校を義務教育化するように働きかけるべきでは?
障害者に限らず,中卒のまま社会へでる(あるいはどこへも行かない)人と言うのが一定量いるわけで,そうした人は無視して障害者だけ救済を というのは,まぁまず反感を買う.
それに高校は教育や学習のレベルによってある程度分かれているからこそ存在意義があると思うので,入学試験を変えるにしてもそこの部分は変えるべきではないと思います.
何を基準に判断するかはまた別の議論になるけど,おそらくどんな基準でやっても,知的障害があるとかなりレベルの低い所に行かざるを得ないんじゃないかなぁ.
それでも良いというなら良いかもしれないが,極端にレベルの低い高校は,やはり普通の場所とは言えないんじゃないかと・・・
玉響 |  2009.02.12(木) 15:09 | URL |  【編集】
●返事が遅くなって申し訳ありません
すいません、最新記事のコメントばかり見ていたので気づいてませんでした…とりあえず、手短にお返事します。
反応を見るかぎり、やっぱり矮小化に手を貸しちゃってるなあ、あたし。

>名前のない子サマ
できれば、この場かぎりで結構ですので他の方と見分けのつくHNをつけていただけると助かります。

>99人の健常者の迷惑をの為に1人を犠牲にすることを否とする場合、逆にその一人を入れることによ利迷惑を受ける何人かを犠牲にする、ということにもなりえます。
いえ、言えません。受ける「犠牲」と「迷惑」が同じものではないからです。排除される「障害者」が侵害されるのは「普通教育を受ける権利」ですが、排除しないことによって「健常者」が受ける(かもしれない)「迷惑」は「普通教育を快適な環境で受ける権利」です。普通に考えれば、前者を優先せざるをえないと思います。
まあ、「犠牲」の中身や主体を問わず、単純に量と人数によって最大多数の最大幸福を計算できるという純粋な功利主義の立場に立てば、また違うのかもしれませんが。しかしこの社会は「それが正しい」とは、少なくとも言い切ってはいません。
そして、「学力」による選別そのものを批判するならば当然、「ハンディを持つ人と学習意欲の低い人をまとめて隔離しているにすぎない状況」自体を問い直していくことになると思いますが。そこで求められる「高校」像は、今とは相当違ったものになるはずです。

>暴行事件がどうこう
誰も障害児が天使だなんて、思ってませんけど。わが子が天使などではなく人間のガキでしかないことなんて、親御さんたちが一番よくご存知なんじゃないですかね。
さて、障害のあるひとが「暴行」する可能性、ですか。知的障害者の暴力犯罪が健常者に比べて多いというデータはなく、また犯罪を犯す/重ねる場合もむしろ福祉の不備から司法が受け皿になってしまっているケースが目立つ、というのは周知のことだと思います。しかし、それを踏まえたうえで、意思伝達に障害があるゆえに暴力に訴えることがある、というのは否定しません。
しかし、それをを理由に隔離するならば、ひとところに集められた障害者や支援者だけを他の障害者による暴力にさらしてしまっている、ということになります。「暴力」という深刻な事例ならなおさら、かれらだけに犠牲を集中させることの正当性が問われてしかるべきだと思いますが。それに、養護学校の職員に「予防措置」の訓練をすることが可能で、他の場所では不可能という理由は、ありませんよね?
それから、逆に「健常者」が「障害者」に暴行する場合ですが。これの原因は「そこに障害者がいるから」ではなく、「そこに暴力を振るうクズがいるから」(この表現もよくありませんが。暴力は個人の属性ではない)です。これを盾にとって障害者を隔離しろというのは、性犯罪が起こるから盛り場から女性を追い出せ、といっているのと変わりません。一人の女として、その理屈は拒否させていただきます。どうしてもってんなら、暴力を振るう方を追い出せば?
深海魚 |  2009.02.12(木) 20:26 | URL |  【編集】
●お返事のつづき。
>mastakosサマ
>(まあ皆が行くのでプラスはないですが行かないとマイナスなので)
でも障害者が0点で入れるなら意味はありません、付加価値がなくなりますから。

追記部分でも書いたとおり、「付加価値なんかとっくにない」というのが私の見解です。「付加価値」がないからこそ、「行かないとマイナス」という側面が大きく現れているのかと。
そして、0点で入れるなら「行かないとマイナス」という価値もなくなる、というのは違います。現状すでに「行って当たり前」となっている高校ですが、要望を受け入れればさらに「当たり前」の面が強くなります。高校で何を身につけるかという内容とかかわりなく、「当たり前」のことをしないということはそれだけで、大きなマイナスになるのです。それは、高校進学が無意味になったり、ただの「趣味」に変わることとは、逆の働きをもっています。
…実はこの辺が、保護者の方々の要望をそれはそれとして筋が通っているとは思いながらも、全面肯定できない理由、だったり。

>多くの人も特に理由なく、高校へ行きます。 (中略)結局行きたい、と言う理由が
「周りと同じようにしたい」
という日本人的な気持ちにしか思えないのです。
だから共感を呼ばないのだと思います。

これは不思議な話ですね。多くのひとが「周りと同じようにしたい」から「特に理由なく」高校へ行って、障害のあるひともそうしたい、というならみんな同じということなのに、どうして共感を呼ばないのでしょう。むしろ親近感がわきませんか?わかないのだとしたら、「かれら」は「われわれ」と同じになる資格がない、してはいけない、とどこかで思ってしまっているのではないでしょうか。
実際は理由などさまざまで、難しい社会論を語る人から「お友達と離れさせたくない」という人までいる中で、最大公約数かつ理解されやすい理由として「他の子と同じように」というのが前面に出てきているのだと思いますが。

>そのまま社会へ出れるならいいのですが現実の社会は競争の真っ只中にいるのですから。
もし日本全体を変えても世界を見ればそれですむわけには行きません。 (中略)悲しい話ですが偏見はダメですが差で別かれることは必要悪です。
ただ厳しすぎる社会はギスギスしたものになります。
どこで線を引くかは難しい問題です。

人間が未来を予測できない以上、一切の偏見を排して「差で別かれる」ことは不可能だと思いますが。というまぜっかえしは、おいといて。
私たちの社会が全ての人に人権があることを前提にしている以上、そして「差で別かれることは必要悪」でしかない以上、「どこで線を引くか」は常に、そこで線を引いたことによって誰かが不当に排除され、権利を侵されていないか問い直しつづけることによってしか、正当化されません。
そして今回、まさにその線引きが問われています。「難しい問題」に答えることが、要求されています。「そこで線を引くのは不当だ」という告発に対して、「どこかで線は引かれてしまう」と返すのは、答えになりません。「いや、そこで線を引くことこそがすばらしいのだ。不当なことなど何もない、むしろもっと選別を厳しくすべきだ」と、胸を張って言えますか?私は、言えません。ですから、返すことばがなく悩んでいます。

>ネモサマ
「名を捨てて実をとる」戦略的なもの言いなんか、山ほどあります。障害児とともに学ぶことが健常児にとってもメリットになる、という言説はたくさんありますし、ネット上にも転がっています。そして、その多くはうなずけるものです。というか、高校入学に焦点を絞った時点で、だいぶ目標を「現実的」で小さなものへと置いています。しかしだからこそ、戦略性によってこぼれてしまっているものがあるのではないか、という批判が成り立つ、ということでもあります。
私のエントリーは、「小さな」目標の背景にあるものがまったく理解されていない状況が目に余ったので、背後にある「大きな話」を解説してみた、というものです。それでもまだ、小さいのですが。
丁寧に読んでいただければわかるかと思いますが、「これにはこういう背景があってねー、それはそれで筋が通ってるから単純に否定はできないよねー」といっているだけで、全面的に賛同しているわけではありません。ましてや、高校入学を達成するための戦略を考える記事でもありません。ですから、私に「名を捨てて実をとる」必要性を説かれても、正直困ります。
深海魚 |  2009.02.12(木) 21:15 | URL |  【編集】
●2009.02.03(火) 11:52に投稿したものです
すいませんがまず前提から、
おっしゃっている普通教育とは
小学校~中学校の義務教育を普通教育と定義されているわけでもないでしょうし
おそらく専門的ではない一般的な教育という意味で普通教育とおっしゃられていると思います。
(ひょっとしたら特別支援教育に対する意味での普通教育とおっしゃっているのかも知れませんがそれでも話は通じるので)

まず最初に普通教育を受ける権利というものは保障されていません。

日本憲法の定めるところの教育を受ける権利とは
日本国憲法第26条第1項にある
「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」
とあり、義務教育においてはまた別に同条第2項の
「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。」
とあります。(ここに述べられている普通教育は前述の通り今回言う普通教育とは別の定義です。)

よって、高等学校の入学を語るにあたっては既得権利の面から話すのは前提から異なります。
「その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利」自体は入試によって「その能力」を試されることにより
健常者も障害者も等しく権利を受けれます。
(健常者だって試験落ちて高校行けない人って言うのはやっぱりいるわけですし
進学率が上がったというのは権利や義務とは関係ない、学習水準や国民の経済状態や学費支援の問題です。)
今回、要望を出した方々について「その高等学校で教育を受けるに足る能力」を満たしてないと言われている人達です。
(障害者ゆえに不合格ではなく、障害者であるために合格点数を出せず不合格)
ですので、今回要求されているのは「その能力に応じて」の箇所を削除しろというものです。

まず、前提として以上を踏まえた上で、

>排除しないことによって「健常者」が受ける(かもしれない)「迷惑」は「普通教育を快適な環境で受ける権利」です。
そもそも、主張されている「権利」というものが現時点では存在していませんので
単純に相互の利益を比較してすり合わせるしかありませんが、
そもそも、お互いに「自分に適した学校へ行く」という選択肢が前提としてあります。
普通高校に行かなくとも特別支援学校の高等科に行くという選択肢がそもそもあるのです。
その上で、学力および要求される授業態度を満たせない学校に入れてくれというのは、
ともに「普通教育を快適な環境で受ける」利益と「普通教育を望んだ環境で受ける」の比較であり
ともに同等な条件であり、その場合は大多数の方が採られてしかるべきです。

それでも、この人たちが普通高校に行かせたい理由というのは
「知的障害者に中学時代の仲間がいる地元の普通高校へ通わせてあげたい」
というのは記事にも書いてありましたが
「子供を隔離されたくない」という意志も強いのではないかと思います。
特別支援学校の方が知的障害者にとってははるかに良い環境です。
専門の知識を持ったスタッフ、各自に合わせた教育、将来に対するサポート
どれも普通高校はとても真似できないものです。
それでも知的障害をもつ子供たちを普通の高校に行かせるというのは親のエゴではなく本当に子供の為でしょうか?
もし、入学をしたとして授業中はどうするのでしょうか?
授業についてくる学習能力がない子供たちが自分の理解できない授業を受けても糧にはなりません。
かといって下の水準に合わせてしまうと他の多数にとって学習の意味がないほどの物になりかねません。
(合格点数を出せない、ということはそういう水準にある、ということだと思います。)
かといって、その子だけ別の授業を受けさせたり、特別措置として一切試験や単位確認などを行わない等するのは
それは単に構内に特別支援学習を行う科を作ったに等しいですしおそらくこの方々の求めているものとは違うと思います。

あと、普通高校と特別支援学校を分ける意味については
>>暴行事件がどうこう
にも関係しますが、設備と人的資源の差が大きくあります。
まず
>養護学校の職員に「予防措置」の訓練をすることが可能で、他の場所では不可能という理由は、ありませんよね?
ですが、そもそも養護学校の教員になるには特別な教育を受け資格が別に必要です。

(今のところ人材不足が原因で資格は免除されているようですが、それでもあくまで時間を区切った特例にすぎません。)
また、生徒1人に対する職員の数も普通高校とは全然違います。
一般の普通高校が、生徒20~30人につき1人職員がいるのに対し知的障害者を対象にした特別支援学校では生徒2~3人に1人職員がいます。
そのうえ、万が一に備え看護師がいたりする場合もあります。
また、設備の面でもさまざまな問題を考慮した作りになっており、専用の学習設備もあります。
そのため普通高校に比べ特別養護学校では生徒一人当たりにつき10倍近い費用がかかっています。
(具体的な数字は文部科学統計要覧に載ってますのでご確認ください。)
このような面からいっても
>かれらだけに犠牲を集中させることの正当性が問われてしかるべき
に関しては犠牲を集中させているのではなく、きちんとした準備や知識がある人に任せているのです。

もちろん、豊富なリソースがあれば普通高校にも同じことをするのは可能でしょうが
そこまで、教員を増やしたり、設備を改良したり、専門的な知識を身につかせたりするには
教員自体の人的リソースも、設備の為の土地リソースや資金リソースも、教員の時間リソースも全然足りません。
資金的な面は国が出せでかたずけるのかもしれませんが(それはそれで無責任ですが)教員関係のリソースはどうすることもできません。

私も子供がおり、その子は足に2級の障害を持っていますが、小学校入学や学校生活に当たり先生方やクラスメイトにかけた迷惑や費用はとても大きなものでした。
とてもありがたく思っていますが、私はこの子に特別扱いは望みません。
本当に必要なのは不自由なく暮らせることではなくその個人に合わせてそのハンディを乗り越えるだけの力を育てることだと思います。
普通高校に進みたいのならば、入学できるよう努力するべきだし
その学力に達していない(それが不可能な障害がある)ならばその子に出来る方向で自分で生きていくすべを身につけさせるべきだと思います。

やはり、そのような面を考えたうえでも
親のエゴを排し、子供の『将来』を考えるのなら差別ではなく区別は必要だと思います。
親のひとり |  2009.02.16(月) 18:06 | URL |  【編集】
健常者で、点が足りずに落ちた人はどう考えればいいのか・・・。

この問題は、誰でも受け入れられる前提から、論理的に結論を出すことはできないでしょう。
結局、例えば有権者の価値観がそれを是とするか否かなのでしょうね。

私は、社会リソースの無駄遣いと思うので、0点入学には賛成しません。中にはそういう学校があってもいいとは思いますが。
ののいえ |  2009.03.16(月) 23:37 | URL |  【編集】

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