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2008年07月25日(金)

私は、日本人じゃありません。 

■すごい文章を読みました。
おそまつな選択肢(在日か、日本人か)。 - hituziのブログじゃがー
うちのブログの昔の記事(たとえばコレ)でも何度か似たような話題を扱っているのですが、短い言葉で端的に表現されていて尊敬いたしました。

「3世なの? それなら もう日本人じゃん」。

ちょっと まってほしい。よくもまあ、あちこちで たくさんの「日本人」が そういうことを おっしゃるけれども。

なんで、在日か、日本人かの二者択一なんだよ。なに、その おそまつな選択肢。

権力の おそろしいところは、「だれかが だれであるか一方的に規定することができる」という点にある。命名権の ひとりじめだ。



ちょっと わかったような口をきく「日本人さん」が、だれかに「もう日本人だよ」と いったところで、ほかの「日本人さま」は、やっぱり在日認定してしまう。在日と規定されてきた ひとたちは、それを よーーーく しっているのだ。

私は「在日コリアン」ではなく中国系ですけども、この記事を読んで思わず、激しくヘッドバンキングしてしまいました。首をたてに振りすぎて首が痛くなったので、今日はもう何を言われても首を横に振ることにしようと思います。

【More・・・】

他人から勝手に属性を決めつけられてしまう、しかも「在日か、日本人か」というあいまいさを許さない二者択一の中に私の生と、それに裏づけられた民族的アイデンティティをはめ込まれてしまうというのは、本当に暴力的だと思います。しかもこうやって一方的に名づけられるのは「普通の日本人」ではなく、常に「あいまい」で「逸脱」したマイノリティの側なのです。「在日」は多数者によって解釈され、そのときの都合次第で「日本人」の枠の中に組み込まれたり、切り離されたりします。「境界」の人たちを「日本人」と「日本人でないもの」に恣意的に区分けすることによって、「日本人」というアイデンティティは作られ、維持されるのです。けれど、この構図はなかなか気づかれません。なぜなら多数派たる「普通の日本人」は、こうやって勝手に決めつけられる経験がめったにないので、「○○人」という属性がいくらでも他者に都合よく書き換えられてしまう、揺らぎをはらんだものだという感覚に乏しいからです。

おこがましいとは思いつつも、一点、読んで思ったことを付けくわえます。
>「3世なの? それなら もう日本人じゃん」
このことばを発する人は、たいていの場合、善意の人なのだと思います。お前の出自ゆえに他の人と違う取り扱いをしたりはしない、むしろお前に親しみを感じている。そう言ってくれているのでしょう。
けれど、「日本人」と呼ぶことが「善意」の表明になりうるためには、その人が「在日」や「朝鮮人」や「中国人」よりも「日本人」のほうが、少なくとも自分にとってはよりよいものだと考えている、という前提がなければいけません。背後には、違った取り扱いを受けて当たり前で、親しみを感じられないたくさんの「まだ日本人じゃない在日」がいるのです。私は好意を向けられたら、ほんとうは好意で返したいのです。けれどこういう言い方に対して喜んでいる反応をすれば、私もまた「在日」より「日本人」のほうがいいと言う価値観を受け入れたことになってしまいます。じゃなきゃ、相手の言葉を好評価だと解釈できません。「日本人じゃん」と言われて喜ぶためには、レイシストにならなきゃいけないのです。だから私は、「あたしは別に、日本人じゃありません」としか、返せません。せっかく好意を示してくれた相手が、傷つくだろうことはわかりながらも。
ところで、「在日」ということばが「一時的滞在」というニュアンスを持っていることは認めたうえで、私はあえて「在日」という名乗りを手放さないでいたいと思いました。私たちは、たまたま今日このとき、日本に居合わせたにすぎません。コリアンだろうが、私のような中国系だろうが、アメリカ人だろうが、ヨーロッパから渡ってこようが。日本生まれだろうが、両親も日本人だろうが、先祖代々日本で土地を守っていようが、日本国籍をもっていようが。ここ日本に、必然的にいつづける理由にはなりません。この国にいる誰もが、暫定的に「在日」しているにすぎないのです。当たり前で自然な「在日でない日本人」なんて、本当は存在しないのです。父親と母親のどちらが日本人であるか、とかのどうでもいい違いをいろいろ言い立てて、そういうものがあるかのように見せかける言説は、山ほど存在するけれど。私は、在日です。当然あなたも、在日ですよね。そういう意味をこめて、私は「在日」を使いつづけたいと思います。

そういえばこの記事とは関係ないんですけど、よく「在日は国に帰ればいいのに」って言う人、いますよね。私の周りにも、堂々とではないにせよそういうことを口走る人がいます。あれ、すごくすごく悲しいです。傷つきます。ムカつきます。私に、帰る国はありません。中国は「帰る」ところではなく「訪ねる」ところです。帰る「場所」ならあります。日本です。横浜の片すみの田舎町にある、小さなアパートです。
もちろんこういうとき、「在日」はおそらく在日コリアンを指していて、私は直接には入っていないのでしょう。「お前のことじゃないし、冗談なんだからそんなに怒るな」とたしなめられます。けれど、冗談として流して一緒に笑うことで、そんな悲しい差別発言を「その場で口にすることが許されたことば」としてまかり通らせてしまうくらいなら、私は冗談の通じないヤツで結構です。これぞAKY(あえて 空気を 読まない)

今夜の小ネタ
ベジタリアン宣言 - あべ・やすし
考えさせられました。前回のエントリで「食と健康と思想」についていろいろとわかったようなことを書きましたが、私はたぶん、ベジタリアンを含めたさまざまな食事法を実践する「かれら」を俯瞰する位置を獲得するために、かなり狭い視点に立っていたのだと思います。
「じっくり腰をすえて考える」と言ったけれど、あんなやっつけ記事じゃなくて、本当に腰をすえて考えよう。

というわけで、今夜の考えごと会場は、代々木上原のVeggie Paradice。たまたま数年前にファッション誌(たぶんCUTiE)でローフードの特集記事を読んだのを思い出したので、健康食食い倒れツアーの一環として行ってまいりました。
すべて46℃以下の低温調理です
写真はリビングフードのディナーセットです。手前のジェネベーゼのパスタに見えるものは、実は大根。その横の赤い液体は、スイカとレモン果汁の冷たいスープです。うん、なんとも形状しがたく不思議な味わい。同行していた友人は「体にいいものが好き」とよく言っていたので、てっきり野菜好きかと思っていたらそうでもなかったらしく(というか、どちらかというと嫌いとみた)、思いっきり顔をしかめていました。私は冷製の「グラタン」(左奥にちょっと見えてる)は悪くないと思ったのですが。
熱変性してない生きた食物酵素をたっぷり摂ってきたので、これでカラダの中からキレイになれます♪

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冗談です。食物酵素(笑)
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テーマ : サヨク・在日・プロ市民 - ジャンル : 政治・経済

タグ : 在日 日本人 ベジタリアン リビングフード ローフード 食物酵素

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Comment

日本社会では「内の人」と「外の人」を分けて扱いますから,外人がどうとか在日がどうとかいうのは,ここら辺の扱いの差でしょう.
「もう日本人じゃん」という発言は「内の人である」という認識を表明しているようにも捉えられる.
(外の人と内の人は,村社会的な意味合いなので,これをしてレイシストというのは何か違うように思います.
どちらかと言うと,外の人は客人扱いなので優遇されるものです.こうした差まで差別扱いしては,文化が失われてしまいます.
ハレとケは区別であって,ハレのほうが豪華だから良い とかそうした価値観ではないってのと同じかと.)

村社会で認められるには,社会の総意として認められた上で,各個人からも認められる必要があります.
まず日本に帰化しているかどうかを問われるのは,社会の総意としての認識がどうであるかを確認するため.
そして日本が好きかどうかを問われたり,日本の風習に馴染んでいるかを見られたりするのは個人間での認識を確認するため.
両者そろって初めて「内の人」になるので,片方が欠けるとダメですね.

日本という社会は概ねこうした性質を持っていると思います.

こうした風習に出会った時に,まず考えるのは自分がどうしたいかという事ではないでしょうか.
この風習に溶け込むには「内の人」に成るべく努力するか「外の人」として確りと定着するかのどちらかです.
村における内と外は明確に区別されるので,この部分では曖昧さが許されにくい.
内の人にはそれ相応の義務と権利があり,役割を確り果たす事で村が維持される.
こうした風習の破壊撲滅を望むというのは,日本の文化・社会形態の破壊を望んでいる事になってしまう.
「あたしは別に、日本人じゃありません」は,明確に「外の人である」という表明なので,これはこれで良いでしょう.
現在の都会人は 外の人 しか存在しないような状態ですから.あまり困らないはず.
内の人を目指すのであれば,社会的な認知を得ると共に,そこに存在する見えない条件を色々とクリアしないといけません.
その土地の人間であっても,この条件をクリアできなければ共同体から追い出され 外の人 扱いになりますし,
完全に異国の人間であっても,条件をクリアしていれば 内の人 に成ります.
内 と 外 の区別は,細かく,色々な部分・色々なレベルで存在しますから(国籍は一番大きいかな),
日本人が 外の人 の気持ちを知らないというのは間違いです.
「外より内がいいだろう」というのはそこから生まれてくる感情でしょう.

在日であるか日本人であるか に注目が行くのは,その問題が自分にとって一番大きいからというだけで
同じような構造が大小様々に存在する事は、きっと知っているはずです.
私は,外の人 である方が楽なので,いつもそういうスタンスです.
まぁ否応にも内の人である事を求められるのが日本社会のもっともウザイ点ですが・・・
玉響 |  2008.07.28(月) 17:49 | URL |  【編集】
●すてきなトラックバック、ありがとうございます。
深海魚さん、こんばんわ。はじめまして。

いきおいで かいてアップした文章をほめてくださって、ありがとうございます。

「在日」という表現についてのご意見に、ものすごく共感しました。わたしは呼称が「固定的であること」に不満をおぼえたのですが、そういった「とらえなおし」も意義ぶかいですね。

ベジタリアンの文章も、とりあげてくださって、ありがとうございました。
あべ |  2008.07.29(火) 23:23 | URL |  【編集】
●コメントありがとうございます
お返事が遅れてごめんなさい>お二方

>玉響サマ
人文系としては「内の人」と「外の人」より「われわれ」と「かれら」と言ったほうがしっくりくるのですが、とりあえず玉響さんの用語法に従わせていただきます。
「もう日本人じゃん」はもちろん、「内の人である」という認識を含んでいます。しかし、リンク先の記事にも私のまとめ(つけくわえ以前の部分)にもあるように、「内の人」と「外の人」は名づける―名づけられるという非対称な関係にあります。たとえば日本で、「在日」と「日本人」のどちらが「内の人」として誰が自分たちに含まれるのかを名指す立場になれるのかは・・・おわかりですよね?「外の人」はそれに対して、溶け込もうと努力するか、外部にとどまるかの2択しかない、というのは玉響さんのコメントにもあるとおりです。受け入れられたとしてもそれはあくまで周縁的な位置としてであり、常に「外の人」と判断される可能性は残ります。そして、判断する権限を握っているのは以前からの、自分の外部性を意識せずにすんでいるマジョリティとしての「内の人」であるわけです。
名づける―名づけられる、同質性の証明を求める―求められる、そして何より、自分の立ち位置が暫定的であることを意識しないですむかどうかという点において、「内の人」と「外の人」は避けがたく非対称です。これは、客人として厚遇されてても一緒ですよ。誰を「客人」として指定してどのように遇するかを決める権限がこの社会において誰の手にあるか、という話なのですから。そして私の記事では、「もう日本人じゃん」という「内の人」認定が善意から発されたものであった場合を想定しています。これは単に「内の人だ」というわけではなく「内の人であるのはいいことだ」(外の人であるのはそれに劣ることだ)という価値判断を含んだ名づけになりますから、内と外の判断基準を「日本人」か否かにおいているかぎり、レイシズムと呼ばざるをえないのではないでしょうか。もちろん、本人は無邪気です。「レイシズム」という言葉をきいて私たちが思い浮かべる暗さ(括弧の中の部分)は表面化していませんが、しかし無邪気で明るいからこそ対処しがたいのです。

ええと、この場合の「日本人」は厳密に国籍に対応しているわけではありません。たとえば日本国籍を取得した非東洋人と、日本国籍を持たない日系人のどちらが「日本人」と一般に呼ばれやすいかを考えていただければと思います。そんなの人によるじゃないか、と思われるかもしれませんが、この「人による」って部分が大事なのです。明白で客観的な基準が存在せず各人が勝手に線を引いているのに、それが意識されず、「在日」か「日本人」か二者択一の自明の区別があるかのように思われているんですね。記事中の「普通の日本人」は、線を引かれるほうではなく引くほうであるために、「日本人」というカテゴリの恣意性に気づかされずにすみ、「日本人」というだけで自分の属性を説明できるかのように思っていられる人々のことを指しています。
民族と、「人種」と、言語と、国家との権利義務関係としての「国籍」とをめぐる絡みあいが意識されず、自然で明確な「われわれ○○人」が存在するかのように思わせ、それが他の差異よりも重要で本質的なものだと錯覚させるイデオロギーがナショナリズムです。その意味で、「内の人」と「外の人」が「日本人」と「在日」になってしまうのは、日本的ムラ社会ではなく近代国民国家の特徴です。

「あたしは別に、日本人じゃありません」という拒絶宣言は、「『日本人』と『在日』ははっきり分けられるはず」という前提に基づいて私を「日本人」と判断したのに対し、その判断基準自体がおかしいと突っぱねる行為です。それは単に「あたしは『外の人』です」というだけではなく、「日本人」たちの基準(に規定されたアイデンティティ)をも揺るがすことになります。だからこれは確かに、伝統と文化を共有していると想像された共同体を破壊しようとしている、といえるかな、とは思います。
けれどこれがダメなら、玉響さんがすべてに対して「外の人」であろうとするのも、やっぱり破壊になっちゃいます。何より、自然と思われているものの恣意性を言ってはいけないのなら、ある種の学問(たとえば社会学や現代思想の流れを汲むものなんか)は焚書坑儒しなきゃいけなくなっちゃいますよ(笑)

>在日であるか日本人であるか に注目が行くのは,その問題が自分にとって一番大きいからというだけで
同じような構造が大小様々に存在する事は、きっと知っているはずです.

確かに社会の中にはあらゆる差異があります。けれど、「日本人」か「在日」か、男か女か、異性愛者か同性愛者か、健常者か障害者か、といった違いと、たとえばクラシックファンかどうか、というのは同じだけの重要性を持っているでしょうか?むしろ、「日本人」かどうかという本来ならどうでもいい、他とたいして変わらないかもしれない違いを本質的なものであるかのように見せかける仕組みがはたらいているのではないでしょうか。だとすれば、それを問題にしてもいいと思うのです。まあ、こうやって問題にすること自体が「日本人」というカテゴリの重要性を強化してしまうことにもなるので難しいのですが。
こうした仕組みをはずして、「在日であるか日本人であるか、に注目がいく」のは本当に趣味の問題でしかないほど「たいしたことじゃない」ことになるのは、むしろ私ののぞむところではあります。けれど、玉響さんのいう(近代国家としての)「日本の文化・社会形態」が、「内の人」と「外の人」を区分けしてそれによって「日本人」の一体感を演出する、という機能によって維持されているならば、「そんなのそれが自分にとって一番大きい問題だから記になってるだけじゃん」と本当に言えてしまえるようになるのは、それこそ「文化の破壊」ですよ。破壊してもいいんじゃね、とは思ってますが(笑)
深海魚 |  2008.07.31(木) 13:53 | URL |  【編集】
●つづき。
>あべサマ
こんにちわ。こちらこそはじめまして。
いえいえ、むしろ私も勢いで書いたので、誤読していないかちょっと心配です;

「在日」という「一時的滞在」のニュアンスを持つことばが「固定的であること」は、その呼称を与えられた人々がその社会の中で「本来の」住人ではない、という位置づけをも固定することになりますからね。
・・・という理解でいいのでしょうか(汗
その場合、「そんな位置はおかしい」というのと「でも、あんたたちだってそうだよね」というのと二つの抵抗の仕方があって、私は後者を取ったということなのかな、と思いました。

ベジタリアン宣言、すごく面白かったです。繰り返し読ませていただきます。
深海魚 |  2008.07.31(木) 14:03 | URL |  【編集】
在日は国に帰ればいいのに
名前のない子 |  2008.08.12(火) 09:33 | URL |  【編集】
テンプレ乙。
コメントはどなたからも歓迎いたしますけど、ちゃんと文章を読んでくださいね。
深海魚 |  2008.08.12(火) 23:17 | URL |  【編集】

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