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2008年05月31日(土)

思考メモ 

■5月ももう終わりだというのに、遅くきた5月病で死にかけています。体はさっぱり動かないのだけど、思考だけ妙に活性化してしまって気ばかりはやる今日このごろ。どうせこんなときは、いくら頭が冴えたつもりでもロクでもないことしか思いつきっこないのだから焦る必要なんかないんだよ、と自分に思い知らせるためにも、考えたことを書き留めておこうと思います。

■とある授業にて。

先生:「憲法改正を支持している憲法学者とか、南京事件を否定している歴史学者っていうのがどのくらいいるんだろうと思って、ボク、頑張って探してみたんですよ。憲法のほうは、慶應大の法学部に改憲論者の先生がいたんですが、小泉政権のときにこんな政治情勢下で改憲なんてとんでもない!っておっしゃられて。南京事件のほうは、一生懸命探してみたんですけど、これはもう学会の隅っこのほうに1人いるかいないかで。それなのに、世間では憲法を改正しろとか南京事件はなかったとかいろいろ盛り上がってるんですよ。まったく学者は何をしてるんだと(笑)」
私:「(ヒソヒソ)南京否定論者の歴史学者って誰だ?」
友:「(ヒソヒソ)わかんない…」

元改憲派の先生、というのが小林節さんのことだというのはすぐにピンときたのですが、後者がいくら考えてもわからなかったのでした。変にあてこすらずに名前を出せよと。

【More・・・】

そんな風にぶちぶちいってたら、こんな報道を見つけました。
2審も著者らに賠償命令 南京事件研究書訴訟 (魚拓

 南京事件の研究書で、事件の被害者とは別人と指摘された中国人の夏淑琴さん(79)が、著者の東中野修道・亜細亜大学教授(60)と出版元の展転社(東京都)に計1500万円の損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決が21日、東京高裁であった。柳田幸三裁判長は東中野教授と同社に計400万円の支払いを命じた1審東京地裁判決を支持、双方の控訴を棄却した。

そっか、東中野修道さんのことだったんだ!スッキリ、スッキリ、スッキリ!
もちろん、かの有名な東中野センセを存じ上げなかったわけではありません。お名前はかねがねうかがっておりました。ただ、彼が「歴史学者」であることを完全に失念していただけで。だって、あの人東ドイツとか、思想史とかそっちが専門じゃないですか。あ、激しく誤解を招きそうな表現になってますが、別に思想史研究者なんて歴史学者のうちに入らんとか、どうせ学会でも隅っこ扱いなんだろとか、そんなことは夢にも思ってませんからね。単に、専門外じゃんというだけです。もっとも、彼のやっていることはすでに専門とか専門じゃないとかをはるかに踏み越えているようですが。「学問的研究の名に値しない」と一審で判決文に書かれたのは伊達じゃございません。
高裁判決自体は、まあ、よかったなと。

■ジェンダー・フリー・バッシングが吹き荒れていたころ、「ジェンダー・フリーだけじゃなくジェンダーの概念そのものが攻撃されている」とよく言われていました。実際にはジェンダーだけでなく、社会学までも共産主義的だ何だと一緒に非難されていることがあり、何でなんだろう、と当時の深海魚は首を傾げていました。確かに女性学やジェンダー学は社会学の理論を援用して発展した面があるので、それらを「共産主義」として攻撃しているうちに大本の社会学まで一緒くたにしちゃったのかしら、と思っていたのです。しかし、いくらもともと牽会付強な「批判」だらけだったとはいえ、これはあまりにも無理がある気がしていました。
それが今年になって、「社会学史」と題された講義に出てみて、ちょっと納得。日本では海外での社会主義への関心から「社会って何じゃ」と、同じく舶来品だった社会学の人気が急上昇した、という歴史があったんですね。そもそも社会学という分野自体がマルクスの「存在が意識を規定する」という命題を批判的に継承し、下部構造がすべてを規定するから経済学だけあればいいといわんばかりのマルクス主義に対して上部構造の役割を考察しようとじたばたもがくことによって発展した、なんて話もありましたし。欧米では、さまざまな社会主義と結びついた社会学も存在していました。マルクス主義フェミニズムが存在するからフェミニズムは共産主義だ、なんていってしまうバックラッシャーな皆さまならば、マルクス主義も社会主義も共産主義も全部一緒くたにして、批判的継承ってあたりもさくっと無視して「社会学は共産主義だ」となっても無理はありません。
社会主義と社会学の関係性というのは、優生学などとの関連から考えてみてもとても興味深いのですが、その辺の歴史を先生方はあまり語りたがらないように思います。私も含め、物心ついたころにはソ連なき世界に暮らしていた今の学生にマルクス・アレルギーなどないでしょうから、ぜひもっとオープンにしていただきたいものです。

■人のいのちに軽重はない、といいます。
日本のような「先進」国で回復の見込みがないとされる重病者を1人生き延びさせるためにつかうお金で、貧しさから飢えや病いに苦しむ人を何人も救える。いのちが等価ならば1人より多数を救ったほうがいいから、重病の人の「延命」に多額をつぎ込むのは不当である、と。なるほどこれは、一見もっともかもしれません。
しかし、いのちが本当に平等ならば、何も重い病気の人だけを死なせて他の人々を救う必要はないわけです。生き延びるだけで大変なお金がかかるような病気にとりあえずは直面しないですんでいるあなたや、私が生きたり、学んだり、遊んだりするのに必要な財をとりあげて、貧しい人に配ったっていいのです。むしろ、私たちは平等に奪われなければ筋が通りません。「健常者」から奪わずに病者や重度障害者から奪うのを妥当とするならば、その時点でいのちに優劣をつけていることになります。それなりに「健康」ないのちは放っておけば死んでしまいそうないのちよりも価値が高く保護されるべきとした上で、こちらの重病で死にそうないのちとあちらの貧しさで死にそうないのちを比較して「平等だから一人がたくさん使うのはおかしい」といっているわけです。
こういう類の「いのちの選別」のすべてを否定することができるのか、またできるとしてそうすべきなのか、私は自信をもって断言することができません。しかし少なくとも、そのような選別を行うかぎり、「いのちは平等だから」なんて、口が裂けてもいえないと思うのです。

↓深海魚のいのちは確実に「劣」だと思うあなたはコチラ
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テーマ : ひとりごとのようなもの - ジャンル : 日記

タグ : 思考 東中野修道 南京事件 社会学 優生思想

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