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2008年05月17日(土)

『脳死の人』を読む人 

脳死の人―生命学の視点から脳死の人―生命学の視点から
(2000/07)
森岡 正博

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脳死/臓器移植問題を語る上での基本的なテキストとされてきた一冊。いずれ読まなければ、と思いつつ延び延びになっていたのをやっと手にすることができた。けれど、正直それほど刺激的だとは思えなかった、というのが本音だ。とはいえ、それはおそらく著者の責任ではない。増補決定版の出版からさえかなりの時間がたっているのと、あたしの関心が著者自身が「本書では触れられなかった」と断っている分野に向かってしまっているのが大きいのだろう。著者がその後に書いた生命学に何ができるか―脳死・フェミニズム・優生思想を先に読んでしまったから、というのもあるか。まえがきで示されている対象読者層を見ても、もう少し早く読んだほうがよかったと思った。
あたしにとっては本編の部分よりもむしろ、文庫化の際や増補決定版の際に収録された文章のほうが参考になるものが多かった。

【More・・・】

著者は脳死患者(一応、この語を使わせてもらいます)の脳の状態を解明すれば脳死のことがわかる、という従来の医学的な発想を一面的なものにすぎないとし、脳死の「人」をとりまく人と人との関係性こそが「脳死」であると提唱している。脳死の人にあたしたちの社会がいかにかかわっていくべきかという「作法」が、「脳死の倫理的問題」だというのだ。森岡さんは、医師が自らを脳死と臓器移植についてもっともよく知る人であるとみなし、自分の知識を「一般市民」に啓蒙して受け入れさせようとする姿勢を「傲慢」だと評価している。自己として、親しい他者として、あるいは見知らぬ他者として脳死の人といかにかかわっていくかに関して、人はみな素人のはずである、という。彼はそうした「素人」の立場から、脳死と臓器移植へのかかわり方についていくつか実践的な提言もおこなっている。
また、数ある不祥事の積み重ねから発生した医療不信に対して医療が無謬であるかのようにいい、だから臓器移植をおこなうわれわれを信用しろというのでは自己欺瞞だとも記す。

 自分たちのもっている弱さとか、悪いところとか、失敗するかもしれないところとかを、相手にさらしてゆくこと、それが必要だと思うのですよ。自分たちも弱い面をもっているのだ、自分たちも間違いをするかもしれないのだということを他人にさらすことによってしか、「信頼関係」は生まれません。医師のみなさん、ここは大事な点ですよ。「私は完璧だ。私は聖人君子だ」といくら言ったとしても、その人はけっして信頼されません。そうではないのですよ。
 そうではなくて、自分たちは完全ではない、悪もいっぱいもっている、間違いもする。その点で私とあなたは同じである。だけれども、私はそのことをあなたに包み隠さずに言う。そして、専門家として間違いを犯しそうになったときには、こういうふうにしてそれを回避するように考えているのだ。こういうことが相手に実感をもって伝わったときに、はじめて、信頼感というのは生まれてくるのです。あるいは不信感というものが徐々に消えてゆくのです。

(P.246)
こうした姿勢にはおおむね賛同するが、2008年現在から見ると少し危うい点もあるように思う。まず第一に、「素人」というのはどうなのか。医学的な側面ではない「かかわり方」だって、それがよいかどうかはともかく、専門知を形成しうるはずだ。第二に、弱い面を「さらす」のはともかく、「伝える」ところまで本当に医師本人がやらなければいけないのだろうか。不信をぬぐうための情報公開をきちんとおこなうには医師は忙しすぎるし、またそのためのスキルも十分とはいえないように思う。「情報公開」は下手におこなえば、余計に疑念をまねきうる。それに対処するだけの余裕が現場の医師にあるだろうか。あたしはむしろ、マスメディア(そこに登場する医療関係の有識者も含めて)にこそ期待したい。また、実用性を高めるためかもしれないが、提言の中には書かれている考察からストレートに導き出せないものもある気がする。

ところで本書からは「脳死は人の死か」という問に対する医学的側面の考察が省かれているけれど、欲をいうならばそこも書いてほしかった。というのも、「文系」の人が書いた脳死の本を読んでいると、何の説明もなく「確かに医学的には脳死は人の死かもしれないが」と流されていることが多いからだ。いったいそのうちのいくつが、医学的な、あるいは生物学的な「死」とは何か、きちんと検討したのだろう。※1 医学の中、科学の中の生命観というのは、「機械論的」とか「唯脳論」とかいろいろな言われ方をするけれど、生死の線引きの根にあるものは意外と見えづらいのだ。ひとつ、思いついたことをとりとめもなく書いておくならば、定義としての死と判定基準としての死があり、「死」は定義によって明確に区分されているように見せかけられながら、実際には基準の運用の中で作られていく。だから、定義自体が変わらなくとも運用のいかんによって「死」は拡大も縮小もする、とかそんな感じかしら。自分で何を言ってるのかよくわからなくなってきたけど。
本書の中で示されているいくつかの視点は、その後の著者の思考につながっていくものである。たとえば「現代科学の部分主義」は文明論に、「ひと/ひとでなし」は優生思想についての考察に、相互に乗り入れながら接続されていくだろう。
この本でひとつ特徴的なのは、脳死の人に必要な医療は救命医療的なものよりも、むしろ患者とそれを囲む家族という「場」をケアすることである、と述べている点だ。著者は「看護」の持つ役割をとても重視している。たまたま今看護学校にもぐりこませていただいているので、「脳死」のケアを足がかりに看護の倫理とはいかにあるべきか、そしていかにあるべきと言われているのかをじっくりと考えてみたいと思った。もちろん、それがあまりにジェンダー化しているのではないか、特定のジェンダーに過重な感情労働を強いているのではないだろうかという危惧も含めて。

本筋とははなれるけど、以下の部分は気になったので長めに引用しておく。

 先進国のなかで、日本は脳死からの臓器移植の再開が遅れました。その理由については、様々に論じられてきました。初期の段階でよく言われたのは、日本文化は独特であるから、脳死は認められないし、臓器移植もなされないのだということでした。その後、それを裏付けるために、生命観や倫理観についての国際的な比較調査が始まっているのですが、意外なことに、生命観などについての有意な差異はまだ見つかっておりません。もちろん、まだアンケート調査の段階ですから、最終的な結論が出たわけではありませんが、どうもそのような差ははっきりとは出てこない。
 私の直観で言いますと、日本で脳死からの移植が遅れたのは、日本独特の生命観のせいではないんじゃないか。そう思うのです。もちろんこの仮説は検証も反証もされていません。まさに、仮説の段階です。たとえば、梅原猛さんは、日本には独特の生命観があるので、日本人は脳死を認めないし、臓器移植にも抵抗があるのだと言ってきました。彼はその根拠を、仏典だとか、日本思想の過去の文献にもとめているわけです。でも、これは、学問的方法としてはかなり危ない。昔の書物に書かれていることを、いまの我々も共有している保証はまったくないからです。
 では、現時点での調査ではどうかというと、日本では八〇年代から脳死臓器移植に関するアンケート調査が繰り返し行なわれています。それを見てみると、日本では、脳死を人の死だと思う人がいちばん多いわけです。これはもう、はっきりとしております。何回調査しても、脳死を人の死だと思う人がいちばん多い。もし、アンケート調査というものが信頼に足るものだとすれば、日本人は独特な生命観があるので脳死には反対するという考え方は、一連の調査によって反証されてしまうのです。つまり、日本人にいちばん多いのは、脳死を人の死だと思う人たちであるわけで、日本人の多くはすでに立派に脳死を受容しているということです。

(P.235-236)
「日本が特殊である」ことを証明するには調査をして差異を示さなければならないこと、また、仮に有意な差が出たとして「どういう傾向があるか」は言えても「それが何から来ているか」まではすぐにはわからないこと、という基本中の基本すら無視して「○○が××なのは日本固有の文化であり云々」というのが後を絶たないからだ。もちろん文化的・社会的差異はどんどん話題にしてかまわないが、こういう俗流文化論者は「文化」が常に変容しながら再生産されるものだということも忘れていることが多い。結果「血はあらそえない」だとか「DNAにすり込まれた民族性」だとかと同レベルの話になってしまう。
結構そういうのでいやな思いをしてるもんでね。どうしても過敏になっちゃう。


オススメ度:★★★☆☆

へびあし
本の中で、臓器移植とはある種の「食人」ではないかという指摘が紹介されていました。食人→カニバリズム→カーニヴァル→祝祭。このあいだ「死刑」を祝祭にたとえましたが、「死刑」と「移植」の双方を祝祭的な「価値の逆転」としてとらえることはできないかな、とふと思いつきました。あちらでは遺族であった巫女は、こちらでは「移植をしなければ助からない」と叫ぶ病者やその家族にあたります。かれらのことばは、まさしく「神託」です。
…我ながら、わけのわからんこと書いてますね。春で、しかも夜中では頭が変な方向に活性化しちゃって、アクロバットな理屈ばかり思い浮かぶのです。

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※1 ちなみに、あたしは知らない。というか、前者と後者が同一のものなのかどうかさえ確信がない。
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タグ : 書評 森岡正博 脳死 生命倫理

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Comment

まぁ人間の感情をどうこうできるほど科学医学は便利じゃないですよね...
死の定義も,境界も,科学を基準に明確に数値的に定めることはできるかもしれませんが,その基準でヒトを納得させられなければ,あまり意味が無い.
万人の納得する定義なんていうと,これはまぁお手上げといいますか,科学でどうこうする範疇じゃない.
ある前提に置いてこうだ というのが科学ですからね.
人間をどう説得するかは工学者(医者)の仕事に相成るわけで.

ところで,化学・情報・生物系(尚且つ私の身内)の人間に限定して言えば「脳死=ヒトの死」と考えている人は少ないように思います.
脳死したらもうあんまり生きてる意味ないよね とは言いますが.
脳の持つ機能の一部が失われて,自己・自我が"失われる"ってイメージです.
細胞生物学や情報,化学基準の「価値観」で考えると,"死"という概念自体が喪失するんじゃないかと思います.
細胞の破壊を細胞死なんていうのも,便宜的に近い意味であるから 死 としているだけで,あれは感覚的には 壊れた 程度にしか見えないですしね.

遺族や病人の家族・・・ そもそもこのヒトらの感情をどげんかせんといかんのではないかと思うわけですが,科学ではどうにも成らないですねー  デパスでも飲ませますか
玉響 |  2008.05.18(日) 08:07 | URL |  【編集】
もちろん、科学がすべての人を納得させられる基準を設定できる、とは思ってません(笑)
ただ、そもそもそこで線引きをすべきなのか、すべきだとしたらよりマシな線の引き方はどのようなものか、をつめていくことはできるんじゃないかなと。

>ある前提に置いてこうだ というのが科学ですからね.
その前提が、おそらく科学の中の死生観をあらわしてると思うのですよ。前提自体は外形的に観測することしかできませんから、ある数値なり基準なりを設定して、それを満たしていれば前提を満たしたとみなす、という風に判断するんだと思います。つまり私たちは、前提がどこに設定されているかと基準の設定・運用が妥当かどうかの二点を問うことができるわけです。逆にいえば、それを問わなければ「脳死は医学的に人の死である」なんてことは言えないと思うんですが、あんまりその辺の仕事がきちっとなされてないんじゃないかなあと。少なくとも「文系」さんたちの間では。

>ところで,化学・情報・生物系(尚且つ私の身内)の人間に限定して言えば「脳死=ヒトの死」と考えている人は少ないように思います.
やっぱり、ですか…
こないだ山口研一郎さんのお話を聞いたとき、「小児科学会や脳外科学会の医師の多くは、脳死をヒトの死と認めていない」ってことをおっしゃっていて、じゃあ今まで「医学的には死んでいる」ことを前提に議論してきたのはなんだったんだよ!と。医師の間にも(といっても、医学の「死」と生物学の「死」は少し違うところがあるような気もするのですが…生物学なら、「ポイント・オブ・ノーリターン」なんて出てこないだろうし)脳死に対して異論があることは知っていましたが、ここまで大きな潮流だとは思ってなかったもので。
初期のほうの、80年代くらいに書かれた脳死の本の中には医学の議論に内在して「脳死」への疑問を投げかけたものもあったと思うんですが、その後にうまく引き継がれなかったのかもしれません。議論自体はあったんでしょうけど、医療者向けの議論だけで終わっちゃったのかな。

>遺族や病人の家族
かれらの感情そのものは肯定したいと思うんですよね、私は。愛する人を亡くしても「悲しい!」って叫んじゃいけない社会とか、「何をしてもいいから私を助けて」って言っちゃいけない社会は息苦しいです。
むしろ問題は、受容する第三者の側だろうと。当事者や家族・遺族はかれらにしか言いえない感情の言葉を発しますが、同時に当事者でない人と同様に論理の言葉も語りえるわけです。第三者が「感動」したり「共感」するための感情の語りしか、当事者から聞こうとしてないのだと思います。そして、自分の聞きたい語りだけを「神託」として祭り上げて、「遺族がそういってるんだから」「当事者がこういってるんだから」と、「死刑」や「移植」にまつわる後ろ暗い部分の責任をすべて当事者に押しつけてるんだろうと。これって、当事者性を尊重してるどころか、搾取してると思うんですよね。
ちなみにデパスは、飲むと欝っぽくなるのでオススメしません(笑)
深海魚 |  2008.05.20(火) 13:57 | URL |  【編集】
>脳外科学会の医師の多くは、脳死をヒトの死と認めていない
脳外科医だとか特定の立場から言うのであれば,「脳死=ヒトの死」てのは認められないでしょうね.
現行の脳死判定にはかなり問題が多いから当然認められないだろうし,そうでないにしても「ヒトの死」を決めるのは脳科学の仕事とは思えない.
医師としてではなく個人として発言しても「脳外科医の見解」として蓄積されないだろうし.

>その前提が、おそらく科学の中の死生観をあらわしてると思うのですよ
科学自体はやはり機械的に扱えるものだという事ですよね.
科学自体は ある前提 に対して ある程度の答え を返すだけなので,思想的に真逆の人間でも科学的にどうかという部分ではあまり対立しません.
しかし,科学を実践する工学者は「技術倫理」「工学倫理」というモノを学びそれに従います.
(医者の場合は医学倫理ってのがあるはずですよね)
この部分は完全に一思想になるわけで,いろんな思想の人が対立しながら,工学者全体の規範とするにはどうしたら良いか話しているようです.

こうした問題について科学が出来ることを考える時,科学者としては「脳死判定を科学的にどう線引きできるか」よりも,
[臓器移植したいなら人工臓器を作れば倫理問題も解決じゃないかな]という科学技術の進歩による新回答を出したくなります.
実際のところ科学技術が一番役に立つのは,そういう方法なんじゃないかな と.
輸血を拒否するエホバの証人も,細胞分画した血やセルサルベージは受け入れるらしいですからね.
玉響 |  2008.05.29(木) 07:22 | URL |  【編集】

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