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2008年03月14日(金)

「死刑」をめぐる水先案内 

死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う
(2008/01/10)
森達也

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かなり前の日記で紹介したときに

書中で森さんは、A、A2を撮った時のことに触れて、「ジャーナリストだから中立でなくてはならないとか、取材対象と距離をおかなくてはならないとかいうつもりはさらさらない。取材をすれば、絶対に対象に感情移入はする」というようなこと(正確な引用ではありません。見つける時間がなかったので)を書いています。

と書いた部分は、正しくは

(引用者注:取材を通して)より近づけばより強く影響を受ける。当たり前の摂理だ。活字を自分の領域にする前、僕はドキュメンタリーを撮っていた。映像を撮るためには近づかなくてはならない。だから被写体に対しては絶対に感情移入する。これを回避することはできない。

(P.266)
でした。前半部分はこれまでに彼が書いたものから私が勝手に脳内補完してしまったようです。うーん、人の記憶って当てにならない。

【More・・・】

森達也死刑」 - 本と奇妙な煙
森達也死刑」・その2 - 本と奇妙な煙

本の内容に関しては、こちらの方のエントリーを見ていただければ雰囲気を掴んでいただけると思います。読んでピンと来るものがあったなら、即本屋にゴーゴー。損はさせません。本屋に行くのが面倒なら、私のアフィリエイトで買っていただけb(ry

文中で森さんは、現在も日本に存在しつづけている死刑制度と処刑されていくひと、処刑するひと、犯罪の被害者や遺族、彼(女)らに関わる人々について、あまりに知られていないことに警鐘を鳴らしています。しかしだからといって、「フンフン、なるほどそうなってるのか。いろんな人がいろんなこと言ってるけど、どれも一理あるんだね」なんて、自分だけは無関係であるかのような態度で「お勉強」するのがいいわけではないのです。
森さんの言うように、私たち※1 は誰もが現に死刑制度を擁する国家に加担して生きています。声高に存置・拡大や廃止・縮小を叫ぶ人ばかりが関わっているわけではないのです。むしろ、現に存在するものにたいしてなんら意見を持たないのは「現状を容認する」というりっぱなメッセージであるとさえ言えます。誰一人として、無垢で無色の存在であることはできません。
だから本書は、「まずは知れ」というとともに、「お勉強」したひとにこう、問いかけてもくるのです。「それで、今あなたはどう思うの」と。きっとそこにこの本の「すごさ」があるんだと思います。

じゃあ私はというと、ゆるい※2 廃止派を自認しています。そうなったきっかけなんかは覚えていません。記憶が間違っていなければかなり幼いころから、テレビや読めるようになったばかりの新聞で悲惨な事件を見て心を痛めるのと同じように、死刑判決や執行を伝える報道にも「何も殺すことないじゃない…」ともやもやしたモノを感じていたので。もちろん論理的な裏づけをもたないわけではありませんが、それは非常にありふれたものになってしまいます。冤罪の可能性とか。代用監獄の問題ともつながってくる、自白重視のシステムとか。死刑にはっきりした抑止効果がないこととか。日本の無期懲役刑が終身刑化していることとか。この問題にある程度関心を持っているひとならば知っていてあたりまえのことばかりなので、わざわざそんな話をえんえんと聞きたいひとはいないでしょう。
無自覚に情報を集めようとすれば、「廃止したい」という自分の望みの根拠となるものばかり目にはいってしまう。うっかり、死刑存置や死刑適用の拡大、さらには厳罰化一般をとなえる意見に対してもとめる水準が厳しくなってしまう。そんな自分のバイアスにも、自覚的にあろうとしているつもりです。きっとまだまだなんだろうけど。
そのうえで、言うならば。

「松村さんがもし、山田みつ子死刑執行のボタンを押してくれって言われたら?」
「やりますよ。それぐらい孫は可愛かったです。孫の未来をぜんぶ奪ったことは絶対に許せません。彼女が本当に更生して、ものすごく良い人間になったとしても、やっぱり許せないですね。だって更生してくれなんて誰も願ってないわけですよ。更生させるのは国の仕事であって、被害者遺族としては更生しようがしまいが関係ない」

(P.291)

「同じ空気を吸いたくないんだ」

(P.294)
という、孫を殺された遺族である松村さんのことば。

「やっぱり応報感情をどう考えるのかが何よりも大事です。それと廃止派の人はよく、犯人を死刑にしても被害者は何も癒されないという言い方をしますよね。

(中略)

仮に死刑判決が出なかった場合、死刑の下は無期だから、だいたい二十五年くらいで社会に出てきます。少年の場合はとりあえず七年で仮釈放が与えられる。いつ社会に出てくるかわからない。家族を殺された遺族にしてみれば、加害者が社会に出てくることに物理的な恐怖感がまずあるんです。応報感情も含めて、簡単に癒すとか癒されないとかの問題ではないと思う」

(P.270)
こっちは、ずっと少年事件や被害者遺族の取材を続けている藤井さんのことば。
「応報感情」と呼ばれるものの中にあるこうした思い※3 に、廃止派はたしかに応えることができないでしょう。加害者の人権と対立しない手段でどんなに被害者を支援しても、こころのケアを提供しても、きっとそれだけでは埋められない。※4 うしろめたい、答えることばがない、そんな無力感に歯噛みします。
けれど、だからこそ「遺族の気持ち」を死刑存置の基盤にすえてしまうのは危うい気がします。だって、加害者を処刑してもやっぱり第三者である私達にはうしろめたさが残るはずなんです。「春奈を返してくださいということです」という松村さんの思いをかなえる力を、人間は持ちません。また、そもそも刑罰というものは被害者や遺族のために執行されるものではないのです。そこで「遺族の気持ち」を聖域化して、それを理由に死刑を正当化することは、死刑にすれば片づくわけではない部分、死刑が被害者以外の何かのために行われている部分、そして死刑囚とはいえ人を殺すことに対する割り切れなさをなかったことにして、「それで被害者遺族は少しでも救われるんだから」と、死刑を「遺族のせい」にしてうしろめたさを消去する行いに思えてならないのです。実際に死刑を執行して囚人を死に至らしめる責任は刑務官に、死刑を執行する道義的責任は遺族に押しつけて、自分たちだけ安全地帯にいるのはあまりにも「お手軽」ではないでしょうか。第三者であっても自分が死刑の拡大を進めることの責任を自覚しながら「遺族の気持ち」を訴えているひとは、ここには当てはまりませんが。
結局、廃止派であろうと存置派であろうと、「遺族の気持ち」に言及しようとすればどこかでかならず欺瞞になってしまう部分、己の無力を思い知るしかない部分が出てくるのです。存置論も廃止論も遺族の傷を埋められるわけではないしすべて遺族のために言っているわけでもない、といううしろめたさを自覚しながら「それでも、死刑制度は○○すべきだ」と主張するところからしか、倫理は生まれないのではないでしょうか。

「見せしめ」としての死刑があることによる安心、というのはまた別に考えてみたいと思います。私の中にも、「悪いひと」がこてんぱんにされるのを見てすっきりしたい、という思いが確かにあるのですから。でも、現状の隠された死刑って、見せしめの役割を果たしていない気がする。だからこそ、たとえば光市の裁判のときのように司法の外でさらし者にしたい、リンチにかけたい、という欲望が噴きあがるんだと思います。
ところで日本では死刑存置を支持するひとが人口の8割を占めているといわれています。平成16年度の調査によれば、「場合によっては死刑もやむを得ない」としたひとが81.4%なのに対し、「どんな場合でも死刑は廃止すべきである」と答えたのは8.8%。これだけを見ると、たしかに死刑制度は圧倒的な支持を受けているように思えます。※5 しかし、「場合によっては」というのはどのような「場合」なのか、どのような条件で死刑を適用し、どのように執行するのなら「やむをえない」と肯定できるのか、に関してはこの調査、何も言ってないんですよね。すぐに死刑制度を全廃することを支持していないのは確実としても、適用を今より広げるべきなのか、抑制するべきなのか、このままでいいのかなんてことはわからないわけです。実際そのうちの30%ほどは、状況が変われば将来的に死刑を廃止してもいいと答えています。この結果をもって「今の日本の」死刑のあり方が支持されていると判断するひとは、その、なんていうか…わざとやってるんじゃなければ、ちょっとおマヌケなんじゃない?

オススメ度:★★★★★
つべこべ言わずに読むべし。

※1 ここに有権者以外の人を含めていいのか少し戸惑いがありますが、死刑のある社会で暮らしてるし、選挙権を必要としない手段でではあるけれど発言することもできるしね。

※2 この「ゆるい」ってのも、私は「ガチガチのアレなひとたち」とは違うから追及しないでください、って言ってるみたいでヤだなあ。どこかぬぐえない「声高な政治主張」への忌避感はなんなんでしょう。

※3 もちろん、被害者や遺族が抱くのは「応報感情」だけではありません。書中でも言われていることですが、彼(女)らの声を「憤り」とか「慟哭」に閉じ込めてしまうのは矮小化です。私達は死刑について「論理」的にも「感情」的にもモノを語るのに、被害者側は「感情」のみであるかのように言うのは失礼だと思います。

※4 これはこれでとても大切ですし、現状まったく足りていないので早急に整備しなきゃいけないところではあります。

※5 そもそも片方の選択肢が「どんな場合でも」という強い主張であるのに対して他方は「場合によっては」と抑制的なことばを使っている時点で、後者に回答を誘導してしまいやすい悪問なわけですが。わざと?


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タグ : 書評 森達也 死刑 ノンフィクション

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