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2007年11月07日(水)

わかりたかった本のはなし 

安楽に死にたい 安楽に死にたい
松田 道雄 (1997/04)
岩波書店

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 高齢者の視点から介護と「安楽死」を語った一冊。「はじめに」、「お医者はわかってくれない」(『図書』1996.5)、「高齢者介護の問題点」(同1997.1-2)、そしてそれらの約10年前に書かれた「市民的自由としての生死の選択」(『シリーズ老いの発見3』1988.11)の4つの文章からなる本書は、高齢の方でも読みやすいよう、大きな活字と平易な言葉でつづられている。
 著者はロングセラーとなった定本育児の百科 / 松田 道雄を書いた元小児科医である。『育児の百科』がまだ定本ではなく分厚い百科事典の体裁をとっていたころからだと思うが、小学生時代の深海魚も暇さえあればそれをひざに抱え込んでページをめくっていた。子どもが育児の本なぞ読んでどうする、とツッコミがはいりそうだけど、幼いころ極端な小食だったあたしとしては「小食でも元気ならいいじゃないか」という著者の言葉は精神的にも、食事を迫る大人に反論するための道具としても、救いだったというわけだ。あ、あと年齢ごとによくある身体の異変を扱った「変わったこと」と、定本では削除されている「子供の病気」の項も好きだったな。

――閑話休題。
 まあともかく、あたしにとっては小さいころから心酔していた著者だというわけだ(亡くなったときは本当にショックだった)。加えて、最近学校で「安楽死」/「尊厳死」/「終末期」医療を扱ったグループワークに参加しているという個人的事情もあり、松田さんの言説とその変遷はぜひとも読んでおかなければならないと思った。もちろん、10年前に出版された本(収録された論文によっては、さらに昔に書かれている)で、今とは医療や介護、緩和ケアなどを取り巻く社会情勢が異なっていたことは念頭におきつつ。

【More・・・】

 昔の日本人は年をとって体が弱れば助けるすべがなかったために安らかに死んでいったが、今は病院に入ればいたずらに命を長引かせられていろいろ苦しまなければならなくなったという。著者はそれがこわく、どうせ死ぬならば楽に死にたいのだそうだ。そのためには無益な延命を控え、時によっては患者主導で薬による自殺幇助さえも許容されるべきだという。医療から介護へと切り替えるために、介護保険制度などのケアの環境の整備も必要だ。この気持ちは年をとって病を得、絶望的な状況になった人でなければ分からない、と著者は嘆く。
 最終章に収められた「市民的自由としての生死の選択」の中では、老人は医者の温情主義(パターナリズム)による支配から脱して市民として自立し、医師に対して死の選択を含む自己決定権(オートノミー)を主張しなければならないとも提言している。

 しかし、松田さんの中で死や死んだほうがマシだと思える生というものは、揺らいでいるように思える。たとえば「お医者はわかってくれない」の中で

いわゆる「ねたきり」(食事の介助、排泄の世話)になったらどうするか。
人の迷惑にならないかぎり、自分の天分を思い切りのばすのが自由だと、いいつづけてきたものが、自分の存在そのものが人の迷惑になるときを迎えたらどうするか。もはや自由ではありえない。自由のないところに、生活がありうるか。私の生活は終わったと思わねばならない。
(P.46)

と述べて自分で動くことができず介助に頼る生を否定しつつ、その後の部分では

庶民は痛みさえなかったら生きているだけで幸福の感はあるのだ。幸福の感じは、理性の産物でなく、もっと感覚的なものだ。
(中略)
生きているだけのねたきり老人の世話をすることは、幸福をたのしんでいる老人の生き方を大事にすることで、憲法でいう個人の尊重である。
(P.54)

と、ねたきりで生き続ける事、その生を支えることを肯定的に記述してもいる。父親の意思によって人工呼吸器を止められたカレン・アン・クインランについての評価も、文章によって分かれている(P.29、P.56)。

 近代化によって家庭での介護ができなくなり、社会化が期待されることを述べている箇所も気になる。今では貧しい介護の代名詞のように語られている特別養護老人ホーム(関係者の方ごめんなさい)に高い期待をかけていることは、時代背景の違いとして納得できるのだけれど。
 問題は、かつての介護は家族が担っていたというより、性差別によって「娘や息子の嫁」といった女性が担わされていたことに配慮しつつ、「社会化された」介護、ケア・ワークもまた「看護婦」や「寮母」などの女性の労働でまかなわれていることには無批判なように見えるところだ。それまで女性が無償で行っていたことを有償になっても女性が担うという構造が、それらの仕事への評価を低く抑え、労働者の報酬が上がらず過酷な仕事になってしまう原因となり、「こころのこもった」介護がなかなか実現されないことと決して無関係ではないのに、そこに言及しないのは片手落ちではないのか、と思う。

 高齢者への過剰の医療を否定して死の自己決定権を認める一方で介護の充実に期待をかけるという姿勢は、高齢者の日常を医者が検査の値が異常だからといって「病気」とみなし、生活を医療で埋め尽くしてしまうことへの批判として読むべきなのかもしれない。重い障害を負った高齢者に必要なのは介護であって延命治療ではないと、脱医療化とキュアからケアへの転換を訴える言説としてとれば、つじつまは合うのだろう。それでも

植物状態が続くとか、痴呆が進行するとか、ガン末期とかに、治療と証する延命措置が無意味であると思うのは市民の良識である。
(P.57)

といった、意識や頭がはっきりしない状態で生きることへの否定的なまなざしは見られるけれど。
 それならば今度は、冒頭で「この本でいう安楽死は重い障害のある方の生死とは関係ありません。」と本書の射程から障害者を排除してしまったことが疑問になってくる。「安楽死」がナチズムをも連想させるような優生思想に根ざしていると思われることを避けるためだと思うけど、脱医療化となれば話は別だ。治すこと、「健常」に近づけることを人生の至上目的に設定され、治療のために地域から隔離されて生活の犠牲を強いられてきた障害者たちの怒りと、松田さんの医療批判はかなり共通するところを持つ。松田さん自身、『育児の百科』の「子供の病気」の中にある「知恵遅れ」「ダウン症」「脳性マヒ」などの項の中で、治療だけが重視され障害児の生が軽んじられていることを強く批判してきたはずだ。第一、病や障害を負った高齢者が治療停止/「安楽死」の対象になるのに、高齢になった重度障害者はその範疇には入らないというのなら、それはそれでおかしな話になる。
 もし、「病気」扱いされて生活が犠牲になることを批判しているのなら、その矛先が「無益な延命治療」に向かうというのも不思議だ。むしろ延命治療と呼ばれる状況に入るずっと前、体はあちこち自由が利かなくなってきているけれど人の手を借りれば安定して暮らせる状態で必要以上に薬を飲まされたり、病院通いに時間をとられたりすることを真っ先に批判すべきだ。医者が治療にばかりかまけて介護があまりにも足りないことをいうにしても「医療か介護か」という二者択一にする必要はない。過剰な医療を拒否するとともに、楽に生きるために介護が必要ならば介護を、医療がなければ生きられないのなら医療をも、「迷惑」なんていわないで要るものは全部要求すればいいだけの話だ。

 ひょっとして、松田さんの頭の中には延命治療をしない安楽な死 v.s. 延命治療をする苦しい生、という対立構造があったのかもしれない。
 あたしは昔、ホスピス関連の本で「二つのプリン」というたとえ話を読んだことがある。あなたの目の前に二つのプリンがあります、片方は小ぶりですが甘い香りがしてとてもおいしそうです、もう片方は大きいけれど色も悪くあまりおいしそうではありません、さあどちらを取りますか?というものだ。小さいほうのプリンが積極的治療を控えるホスピスケア、大きいほうは病院での延命治療を指している。プリンの大小は生命の長さ、味はその質をそれぞれ表し、それらは一方しか取れないものとされている。無理に命を伸ばしても苦しいだけですよ、というわけだ。「安楽死」(もしくは「尊厳死」)が語られるとき、よく前提にされる構図じゃないだろうか。
 けれど少し待ってほしい。医療は必ずしも苦痛に繋がるわけではないはずだ。何かの症状があってしんどいとき、医療技術は根治できなかったとしてもそれをやわらげるのに役立つ。たとえば人工呼吸器などは「無理に生かしている」「苦しそう」とよく槍玉にあげられるが、そこで治療を止めて息をしづらいままにさせておくほうがよっぽど苦しいんじゃないのか。また、今のままの病院の治療では苦しい、もうこれ以上はよして死にたい、というときでも、治療を差し引くよりは介護を足すことでやわらげられるような苦しみもあるはずだ。
 もちろん末期がんの鎮痛のように、苦痛をやわらげようとするとどうしても余命を縮めてしまうことはあるだろう(最近は、そうならない鎮痛法も開発されてきているようだけど)。そういう場合には、痛みをとることを優先するのも仕方がないかもしれない。しかし、(少なくとも死ぬ程ではないくらいに)安楽に長生きする方法があるのならばそれが一番いいに決まっているし、そのために役に立つのなら「延命治療」だろうがなんだろうがどんどん投入すればいいじゃないか、と思う。プリンは甘いほうがいいけれど、だからといって小さいプリンで我慢しなければいけないなんてことはないのだ。

 そんなわけで、読めば読むほど頭の中に「?」が満ちてきてしまう本だった。それはあたしの頭が悪いせいかもしれないし、あるいは著者がいうように老人ではないものに老人の気持ちなどわからないのかもしれない。けれど、わからなかったものは素直にわからなかったというしかない。
 終末期医療と「尊厳死」に関心を持つ一人として、そして何より松田ファンとして、あたしはこの本をわかりたかった。でも、わからなかった。だって、かつて著者自身が「安楽死」法制化は社会保障の不備に弱者の死で決着をつけることなるんじゃないかと危惧した、そのとおりを歩んでいる気がしたんだもの。あのとき彼は法制化を時期尚早としたけれど、その「時期」は97年でも、その10年後の07年でもまだ到来しているとは思えない。

オススメ度:★★★☆☆

※11/8追記
立岩真也さんのサイト(で、いいんだよね?)に参考になる資料を見つけました。
松田道雄
「死の決定について・4――松田道雄のこと」(医療と社会ブックガイド・7)
・・・うーん。
こうやって見るとあたしの書いたことって、「安楽死」・「尊厳死」全般が対象で松田さん個人に対しては的外れだった気がする。

↓長文が嫌いなあなたはコチラ。まとめるのが下手でスイマセン・・・
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テーマ : 書評 - ジャンル : 本・雑誌

タグ : 書評 松田道雄 尊厳死 安楽死 生命倫理

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Comment

安楽死にせよ何にせよ何が「良い」事で何が「悪い事」なのか,それを誰が判断すべきなのかは難しいですよね.
玉響 |  2007.11.09(金) 23:48 | URL |  【編集】
●うーんと
「安楽死」(何故かカッコがつく)が良いことなのか悪いことなのかの前に、死にたくなる(させる)状況が良いことなのか悪いことなのか、を問わないと結局何もいっていない気がします。そして、死なせてしまう社会に荷担している人全員に「そんな状態でいいのか」を判断する義務があるんじゃないかなあと。判断を放棄する、というのも現状のままでよしというひとつの判断です。
生き延びることを邪魔するような要因のうちの取り除けるものは取り除いて、それではじめて「死ぬ権利」があるかないかって話ができる気がするんですよね。そうじゃなきゃ「生きるか死ぬか」という対等な選択肢が出来上がりませんから。実質死ぬしかない、になっちゃって。

それとは別に「いいとは思わないがおまえを生かすだけの余力がないから死んでくれ」というのもありえますけど(本当に余力がないのか検討しなきゃですが)、それは「助けられなくて死なせてしまった」であって、「安楽死」でもなんでもないだろうなと。むしろ、死にゆく人を支えないですむ生者にとっての「安楽」ですかね。
深海魚 |  2007.11.10(土) 21:44 | URL |  【編集】

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