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2007年01月21日(日)

自分語り 

「何を今更、今までだってしまくっているじゃねーか」というツッコミが雨あられのごとく飛んできそうだが、「自分語りします」とあえて宣言することに意味がある・・・かもしれない。
中国には「世上只有媽媽好」という童謡がある。

世界でママほどいいものはない
ママのいる子は宝のようだ
ママの抱擁に包まれて
幸福は享け切れないほどだ

ママがいないのは最も苦しいことだ
ママのいない子は草のようだ
ママの抱擁を離れて
幸福をどこに探せばいいのだろう

世界でママほどいいものはない
ママのいる子はそれを知らない
もしも彼が知ったなら
夢の中でも笑うだろう

日本語に訳すと、こんな意味になる。「世界で一番ママが好き」というタイトルで子ども用の中国語教材として出回っているようなので、ご存知の方もいるかもしれない。
言葉を操ることを覚えるか覚えないかくらいの年齢だったころ、あたしがもっとも身近に聴いていた歌だ。そして、これまでの短い人生を通して、あたしの一番嫌いな歌でもある。

【More・・・】

最近の「日本」や「中国」を語る記事を読んでくださっている方の中にはあたしが幼いころに中国から日本へやってきたと思われている方もいると思うが、実は東京生まれである。
あたしが生まれたのは(ピーッ)年前の2月10日、そろそろ日が沈む時間のことだった。困ったことに、そのとき両親は学位論文の執筆に追われている真っ最中で、とてもじゃないけれど赤ん坊の世話などに専念できる状況ではなかった。時期から考えるに、十中八九、予定外の妊娠もしくは望まない妊娠というヤツだろう。それでも「産む」という決断をしてくれたおかげで、ここで悠長にブログなど書いていられることには、いくら感謝してもし足りない。新たな家族を養うために、はそれ以上学問の道を進むことを断念して働きに出ざるを得なくなった。そのことには、今でも少し負い目を感じる。
そんなわけで、最初の半年は中国人の親戚が東京の我が家に住み込んで面倒を見てくれたのだが、在留資格やら慣れない生活環境やらで限界が来た彼女は、あたしを連れて中国に帰った。それから2年と少しの間、あたしは天津市に住む彼女とその夫の元で育てられた。忙しさで日本を離れられなかったとは違い、父は中国に短期の職を見つけて大半の時期を共に過ごしてくれたようだけれど、残念ながら記憶にはほとんど残っていない。

あたしを養ってくれた夫妻は、日本語を話せない。「育ての父」のほうは片言ながらもあたしのために覚えようと努力してくれたらしいが、かなりの高齢だった彼が日本語を覚えるのと乳児が中国語を覚えるのだったらどう考えても後者のほうが速い。かくしてあたしは、中国語を話し、中国の歌を歌い、中国の食事を食べる中国人として成長した。
余談だが、そのころの深海魚は「雪碧(サイダー)」や「露露(杏仁ドリンク)」といった、向こうの子供が好む食品を喜んで口にしていたらしい。しかし、今となっては炭酸飲料がかなり苦手で、アルコールが入っていなければまともに飲むことができない。「露露」にいたってはパーマ液の味にしか感じられず、一口含んだだけで魂が抜けそうになる。三つ子の魂百まで、というわけにはいかないようだ。

そのころは、自分のナショナリティに疑いを持つことなど考えてもみなかった。やっと仕事に余裕ができて「日本で一緒に暮らそう」と迎えに来てくれた親に「我是中国人、為什莫要去日本!(あたしは中国人だよ、なんで日本になんか行かなきゃいけないの!)」と叫んで泣かせた、というなんとも親不孝な逸話まで残っているほどだ。
当時、あたしはおよそ二歳半。子どもの発達の目安で言うなら、せいぜい二語文(あめちょうだい、とか)が話せて、簡単な疑問文が出る程度のはずだから、今思うと嘘のような話である。しかし、前後の場面を含めて様子はしっかり記憶しているし、その場にいた大人に訊いても「本当に言ってた」と答えるのでどうやらマジらしい。数年前に亡くなってしまった「育ての父」はあたしに色々教え込むのが趣味だったらしく、遺された手帳によれば漢字や漢詩を数十は覚えさせたようだから、きっとその辺の影響だろう。どうでもいいけれど、三歳にもならない幼児が「春眠暁ヲ覚エズ」とか「床前ニ明月ノ光」とかそらで唱えてるのって、利発を通り越してそろそろ気色悪い領域に入ってると思う。
ちなみに、ごくわずかの簡単な字と有名な詩以外は、日本に帰るときれいさっぱり忘れてしまった。そして成長してみればこのザマである。「十を過ぎたらただの人」というより、「十を過ぎたらただのバカ」。あまり意味のある教育法ではなかったようだ。だから、間違っても「ウチの子にも早期教育しなきゃ!」なんて、画面の前でこぶしを握りしめないこと。

――閑話休題。
冒頭の歌は、まさに「育ての」にあたる女性が繰り返し繰り返し、子守唄のように歌ってくれたものなのだ。そりゃ、嫌いにもなるよね。嫌味かよっていう。
一般的に「子一体期」と呼ばれるような時期に親から離れて海の向こうへと預けられ、その後も頻繁に「もう一つの家庭」と「もう一つの文化」に触れて大きくなった経験は、確かに特殊なものかもしれない。今「家族」や「国家」「民族」に関心を持っていることには、その体験が子ども心に落とした複雑な(暗い訳ではない)影も大きく関わっているのだろう。けれど、あたしは決して「草のよう」なんかじゃなかった。
海の向こうから一人中国へとやってきた赤ん坊に注がれる親戚や隣人たちのまなざしは、決して単純なものではなかっただろう。二年の歳月が経って母親が迎えに来たときも、おそらく母を「母」であるとすら認識していない時期に別れたあたしには、「再」会というより、「出会い」「出現」といったほうが近かっただろう。物心がついたばかりの子どもにとって、東京行きの飛行機を降りたとたんに周りの人が話している言葉も、窓から見える風景も、テレビの中で笑顔を振りまくお姉さんも何もかも別物に入れ替わってしまうのは、想像もつかないほどの驚きだっただろう。それでも、そうした出会いと驚きの連続は、思い出せば楽しかったことばかりなのだ。それらの全てがきっと「幸せ」なものだったと、今なら言うことができる。
幸福をどこに探せばいいのだろう、だって?探しに行く必要なんかない。青い鳥は、あたしの手の中だ。

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テーマ : エッセイ - ジャンル : 小説・文学

タグ : エッセイ 生い立ち 家族 中国

【編集】 |  23:54 |  日常  | TB(0)  | CM(3) | Top↑

Comment

●えぇなw
俺の子供時代は転校の連続だったし
親もノイローゼ状態だったのであんまえぇことないから
少し共感なのだろうか?
う~ん同感だなww
でも残念ながら幼少期にいい記憶はないな(泣)
思い出すだけで死にたくなるものでしたww
幼少期の経験が人格の50%に影響するっていう人もいるらしいが
なるほど、だからこんなにひん曲がった人格になってしまったのか俺(笑)
雲銀 |  2007.01.22(月) 02:16 | URL |  【編集】
●図に乗って
少々書きすぎました。イタタタタ・・・

>雲銀サマ
君も人生色々なんだねえ・・・
私の「思い出すだけで死にたくなる」時期はこの頃よりだいぶ後になるので。そっちはとてもじゃないけど書けません(苦笑)

>幼少期の経験が人格の50%に影響するっていう人もいるらしいが
だから私はこんなにまっすぐで純粋に育ったんだね!
・・・すいません、石を投げないでください。
深海魚 |  2007.01.23(火) 00:54 | URL |  【編集】
●アハハハ(笑)
>幼少期の経験が人格の50%に影響するっていう人もいるらしいが
だから私はこんなにまっすぐで純粋に育ったんだね!


アハハハwwww
とりあえずノーコメント(ついでに石投げとく♪)
雲銀 |  2007.01.23(火) 00:59 | URL |  【編集】

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