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2006年12月20日(水)

酒宴とか自我論とか 

■街を彩るクリスマス・イルミネーションと、手に手をとって仲むつまじく行き交うカップルたちが、何か精神的苦行のように思えてきた深海魚です。こんばんわ。
毎年毎年、この季節にはろくなことが起こりませんコンチキショウ。

■学校で同じ授業に出ている皆様と飲み会をしてきました。
集合場所で、同行していた先輩がたまたま出くわしたご友人たちに連れ去られてしまい、いきなり行方不明に。運の悪いことに、その場はものすごい人ごみで、どちらに歩いていったのかさえわかりません。向こうの方々と一緒に遊びに行ったのかな?と思い、残りのメンバーは彼を探すことを諦めて移動を始めてしまいました。まったく、薄情な後輩たちだなあ。私もな。
しばらくしてお店に着いたころに文句の電話が来て、友人の一人が慌てて飛び出して迎えに行きましたとさ。

私:「さっきは、置いて行っちゃってごめんなさい」
先輩:「・・・・・・」(プイッ)

すいませんすいません本当に悪かったと思っております、ですからどうか膨れないでください。

私も含めてなぜか女性陣のテンションが異様に高く、皆様日ごろたまりたまったものがあるのね・・・、という感じでした。

友:「深海魚、クリスマスはどこ行くの?」
私:「・・・あたしに向かって聞くんじゃねえ」
友:「じゃあどこ向けばいいのさ」

私:「あの辺」(天井のシャンデリアを指す)

友:(シャンデリアに向かって)「深海魚~、クリスマスはどこ行くの~!?」

うん、ちょっと落ち着こう。店員さんすみません、迷惑な客で。

【More・・・】

■頭の普段使っていない部分を動かそうと、できもしない哲学的思考を試みる。

少し前、授業で「私」とは何であるか、という話を聞きました。大きく分ければ、身体とは区別された「精神」が私である派と、そんな区別はなく「身体そのもの」が私である派、に2分できるそうです。
死は確実に身体の破滅を引き起こすので(脳死除く)、身体そのものが「私」であれば、死後の世界や死んだ後も世界を見守る自分、などはありえないことになります。多くの宗教にあるように魂の不滅を想定するには、体とは別の場所に自分というものがあると規定せざるを得ません。

でも考えてみると、私たちの心と体はそんなにはっきりと分離可能で、心が体を一方的に支配している、所有しているような関係でしょうか?自分の意志によって身体を操作するという心→体の関係性がある一方、体調や外部環境によって精神が影響を受けるという体→心への作用も、私たちは日常的に体験します。精神と身体を分離することは、不可能なように思われます。
一方で、「頭ではわかっていても体がついていかない」というのも、普段何気なく言われる言葉です。ここでは、心と体が分離してしまう、という感覚が表されています。精神と身体は完全に同一のものではなく、少なくとも重なり合わない部分があることを感じているのでしょう。
身体から分離された精神が「私」であるというのも、身体そのものが「私」であるというのも、そのどちらもしっくりこないもののように、私には思えます。

じゃあ「私」はどこにあるのか。心と体が、どこまで同一なのかはともかくとして確実に繋がっている、その関係性そのものが「私」なのです。「私はこの体を通してしか生きられない」「この体を通して生きられるのは私だけ」と感じること、その行為そのものが「私」なのです。当然、この「私」は全てに先立つ不変のものなどではなく、精神と身体の関係性を私たちが様々なかたちで経験するたび、柔軟に変容していく「私」です。
私たちは誰1人として死を経験することはできませんから、死後に「私」を構成する何かが残るのか、何一つ残らないのかを体験として知ることは誰にもできません。けれど、身体がそこにない以上、関係性は失われてしまいますから、死後に「私」は残らない、と言い切ることができます。

ちょっと現実に応用してみます。「胎児に自己はあるか」というのを例にしましょう。
胎児の身体は母体と物理的につながれていて、どこまでが自分の体なのか、境界が曖昧です。彼/彼女の身体は同時に母親の身体でもあるのです。そもそも「この体」がはっきりしない状態では前述の「私はこの体を通してしか生きられない」「この体を通して生きられるのは私だけ」という感覚を持つことはできません。
自分の身体をいまだ確定していない胎児は、精神と身体の関係性=「私」ではありえません。その意味で、胎児の自己、胎児の存在というのは生後の人間のそれとは分けて考えるべきだと思います。しかし、いずれ「私」になると期待される存在という点で、臓器や手足などの母体の他の部分とは区別されるでしょう。
これで、人工妊娠中絶をめぐって言われる「胎児は両義的な存在」というのを説明できないだろうか。無理ですね、ハイ。所詮「テツガク?何それ食える?」状態の人間が考えたことだし。

とまあこんな調子で、ここ1週間ほど、静かな場所で独りになるたびに上のような考えが頭の中をグルグルし始める、という奇病に取り憑かれておりました。きっとアタマの風邪です。
風邪は人に感染せば治るらしいので、ここに書いて誰かに感染させようと思います。

■今日のオマケ
映画『エコール』のレビューをネット上でチェックしてみました。反応は大雑把に分類すると

・ロリータ最高!超カワイイ!
・何これ児童ポルノすれすれじゃねえか。ふざけんな。

のどちらかになるようです。どちらも、この映画がロリータを賛美している、端的に言えば「ロリコン」受けを狙って撮られたものだという前提の上に立っていますね。
私には、あの映画は社会を構成する男性が少女たちに向ける「ロリコン」的なまなざしをわざとそっくりになぞっているとしか思えませんでした。そうすることによって、その暴力性を描き出して告発しようとしているのだと。(詳しくはコチラ
だから、この映画に怒りを覚える、というのはもしかしたらとてもいい反応かもしれません。それはつまり、この社会における女性の他者化と性差別そのものに対して憤っていることに他ならないのですから。

私も最初は単純なロリータ賛美の作品だと思っていて、「ビアンカ綺麗すぎ!」とか「ローラ萌え~」とか内心つぶやきながら観ていたのですが、途中でスクリーンの奥からこちら側へと浸食してきて、「あなたはどうなの、あなたも舞台を見ている顔のない男たち(作中のワンシーン。男性社会のまなざしの象徴と思われる)と同類なの?」とじわじわと揺さぶりをかけられているようで怖くてたまりませんでした。それはもう、思わず「うわぁ・・・」と声を上げそうになるほどに。
鑑賞直後の興奮が過ぎ去って、あの映画はなんだったんだろうと考え、そのテーマの深さとこめられたメッセージに驚きました。すごいものを観ちゃったなあ、と今でも思っています。

なんだけど、ざっと見た限り同じようなことを考えている人が1人もいないんだよね。深海魚の考えすぎなんでしょうか?観た方の意見を聞きたいです。
まあ、たとえ本当に私1人でも、それはそれでいいじゃないと思いますけどね。

↓考えすぎだと思うあなたはコチラ
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テーマ : ぅわは―――――ッい!!!ヽ(`∀´)ノ - ジャンル : 日記

タグ : 御バカ日記 飲み会 自我論 哲学 映画 エコール

【編集】 |  23:46 |  日常  | TB(0)  | CM(4) | Top↑

Comment

>私
本来 脳はその他の肉体という入出力デバイスから入力された情報を処理し,出力する器官に過ぎません.
従って他の肉体と脳を分離しても,脳の側の存在意義は無い訳です.
入力も出力も出来ないコアは働かないですから.

しかし,これは生物・動物的に考えた場合の話です.
脳と[自己]の関係を考えてみると,[私]や[自己]という認識は脳のネットワークによって生み出されている幻影なわけです.
これは脳や神経細胞といったハードウェアよりも,そのハードウェアが構成する機構,回路により生み出されるもので,
例えばハードウェア側がバイオコンピューターや人工細胞といった別のものに変わったとしても,機構・回路が同じならば,同じ結果が得られると考えられます.
SF的に考えれば,[私]というものは,人工的にコピーし得る存在という事になると思います.
これは精神と肉体の分離という哲学的な大問題(?)であると同時に,
遺伝子からの開放という生物学的にも大問題になったりします.
そもそも肉体というハードウェアが変更されれば,入出力の情報にも多少の差が出るわけで,
それにより脳の回路(精神)が変更されてしまえば,いったい何が自己で何が私なのか・・・
情報の連続性 自己同一性などの問題になると,また哲学と脳科学の狭間ですねぇ.

ところで,胎児と母体は臍の緒のみで母体と接続されているわけですが
そのいったいどこまでが母方の細胞で,どこからが子側の細胞であるのか,その境界はいずこにありや?
と,いう質問を大学の医学拠りの生物学の教授に聞いてみた事があったのですが,
[面白い質問だねぇ.臍の緒近辺のどこかだとは思うが・・・
 少なくともその部分は免疫機構が押さえられているわけだが
 それでもどこかに境界はあるはずだな]
と仰っておられました.
因みに血液や栄養分を胎児に送る際には,フィルターの様なものを解しているので
赤血球や白血球のような母体側の細胞が子側に行く事はありません.
血が繋がっている とは言っても,細胞的には全く混ざらないのですねぇ.

話が迷走しまして申し訳ないorz
玉響 |  2006.12.21(木) 08:05 | URL |  【編集】
>深海魚さん
先輩:「・・・・・・」(プイッ)
           ↑ここの部分だけ見ると、ずいぶんとかわいらしい先輩ですね。
と、それはさておき、「私とはなんであるか」ですか。すごく難しいですねぇ。私は思考が単純というか考えが浅いので、「私が私と認識しているものが私」くらいしか考えられないです。

>玉響
レス長い。
遙斗 |  2006.12.22(金) 00:05 | URL |  【編集】
>遙斗
>「私が私と認識しているものが私」
私が私を認識している以上、私は存在している
ってか?
レスが長いのは仕様だ。
玉響 |  2006.12.22(金) 02:36 | URL |  【編集】
●アタマの風邪をぶり返させてみる
>玉響サマ
わぁい、さっそく感染者が(笑)
・・・あれ?でも今ここでレスをしたらせっかく治癒したビョーキに再感染してしまうような。まぁいいか。

神経細胞も回路やネットワークを構成する一部分ですから、それに変更があればやはり「私」には何らかの影響があるんじゃないでしょうか。おそらく肉体や外部環境に細やかに左右され、また肉体をも左右する変動そのものが「私」なんじゃないかなあと。外部の影響によって容易に変化するからこそ、「私のからだを他者が左右すること」は「私」そのものに対する暴力である、と言えるのだと思います。
そう考えると、固定的な「私」というのはおっしゃるとおり幻影にすぎませんし、昨日の「私」と今日の「私」は同一ではありえません。しかしそこに連続性があるだろうと想定できることが自己同一性であって、その幻想自体は誰でも持っているし、持つ権利がある、ということなのではないかと思います。
自己同一性やらアイデンティティやらという話になると社会学も絡んできますね。社会的に割り当てられた役割の取得、という要素が入りますので。

「胎児の両義性」というのは妊娠した女性の体感から生まれた言葉だそうです。もっとも、私は妊娠したことがないので、どのような感覚なのか言葉で理解する以上のことはできないのですが、おそらく「どこかで分けられるんだろうけれど、どこで分かれるのかはっきりしない」というのとそれほど遠いものではないんじゃないでしょうか。
免疫は自己と非自己を識別するシステムなので、それが抑制されるというのも重要になってくる気がします。あえて境界をはっきりさせないためのメカニズムが働いているというか。むぐぐ、考え慣れていないことを考えすぎて、そろそろ頭から煙が。

>遙斗サマ
素でああいうしぐさができる人は、性別・年齢関わらずかわいらしいと思います!というか、かわいいですよ文句なしに。
・・・ご本人に怒られそうですが。

文系はこういう、難しいけどそもそも何のために考えているのかよくわからないことをうんうんうなって考えるのが仕事ですから(笑)
特に哲学とか倫理学方面の人は、もう「すごい」としか言いようがないです。
>「私が私と認識しているものが私」
自己アイデンティティとかいうのでしょうか。それとも、自分が自分のことを一番わかっている、ということですか?
深海魚 |  2006.12.26(火) 18:50 | URL |  【編集】

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