FC2ブログ
2020年07月/ 06月≪ 12345678910111213141516171819202122232425262728293031≫08月
2006年11月26日(日)

ロリータ映画解釈 

■先日載せた『エコール』感想でこんな一節を書きました。
もう一つ気になったのは、最上級生たちが卒業前に毎晩舞台で男性の観客に踊りを見せていたこと。男性に見られ、選ばれる=性的主体としての男の性的対象となることによって、卒業する=イノセンスを喪うのに、少女たちがものすごく幸せそうな表情をしていたのが現実を映しているようで、グロテスクでした。
この箇所がどうしても頭に引っかかって離れなかったのでもう少し掘り下げて考えてみたところ、感想というより一つの解釈論のようになってしまったのでそれも載せてみようと思います。
あくまで私個人の解釈、というより妄想に近いものなのでこれが正解だとか主張するつもりは毛頭ありません。むしろ、一度流通した表現である以上様々な解釈があってしかるべきで、制作者の意思さえも唯一絶対の答えではないと思います。

あ、ネタバレ注意。それでもかまわないという方だけ、下の「read more...」をクリックしてお進みください。

【More・・・】

■私の頭に引っかかっているシーンは、卒業を目前にしたビアンカが、後を継ぐことになる1つ年下のナディアをつれて、毎晩ひそかに出かけていた先に向かうところです。実は、彼女らはそこでステージに立って、顔の見えない男性観客の前で踊りを披露していたのでした。そこでビアンカは、観客の1人(声のみ)から「君は綺麗だ!」という言葉とともに薔薇の花を投げられます。時を前後して彼女は初潮を迎え、その後まもなく同級生たちとともに卒業します。その時、少女たちは幸せそうに満面の笑みを浮かべていました。

初潮は少女から娘への変化を表しています。その時期に舞台に立ち男性の評価対象になることは、女性は成熟すれば男性たちから品評され、選ばれる対象となる、ということを暗示しているのではないでしょうか。そして、「薔薇を投げる」という行為は、少女を選んだことを象徴しているのだと思います。選ばれ所有されることによって少女たちは卒業するのです。
学校の中で規則に縛られて生活することと、そこから出て個々の男性に所有されることは、どちらも彼女たちの主体性を奪われることであり、抑圧の二者択一でしかありません。しかし、「外」の世界を知らない少女たちは、後者を解放だと勘違いしてしまう。これが、彼女達のイノセンスなのだと私は読み取りました。学校に残った二人の先生は、「外」が解放でないことに気づいてしまい、といって何も知らない少女に戻ることもできず、行き場をなくしてしまったのだと。作中でエヴァ先生はイリスを呼び出し「服従は幸福への道なのよ(うろ覚え)」と言って聞かせますが、これは学校の中に限ったことではなく、外部に出てからも深いことは考えず男や社会に従ったほうが幸せに生きられるという忠告なのだと思います。
学校は、少女(ロリータ)たちを外部から隔離し支配下に置くことによって、彼女たちがイノセントなまま、自ら望んで男に所有される女性(レディ)となるように仕向ける役目を果たしている、と言えるでしょう。踊り以外に生き物が生まれ育って子孫を残す周期を教えているのも、レディたちがよき妻・母として子を産み育てる責任を負わされた存在であることを考えれば納得がいきます。

■注目したいのは、この映画の中では、ラストシーンでビアンカと出会った少年を除いて「男性」は声や後姿でしか登場しないということです。彼らは映されない、見られない。見られる対象・品評される対象には決してならない、あくまで見て、選ぶ主体の側なのです。所有する側なのです。
そういう意味では、私はラストのビアンカと少年をどのように解釈するか、少し迷っているのですが。先ほども書いたとおり、この少年は映画で最初にして唯一、はっきりと顔が映し出される男性です。彼がビアンカと見つめあう、という描写をどう評価するか。これをビアンカが彼に所有されたと見るか、それとも彼女が男性に一方的に見られるのではなく見る側にも回ったことで、主体性を回復したと考えるか。ビアンカは果たしてイノセントなままレディとなったのか、そこから降りることができたのか、これは自分の中で考えが揺れている部分です。

話がそれました。作中の男性が少女たちを見る視線の一方性について述べましたが、もう一つ、一方的に「見る」側に立っている存在があります。それは、映画の観客の私たちです。映画の中では無垢で時に残酷なロリータたちが美しく描かれ、私たちはそれを見ているわけですね。そこに、「一方的にロリータを品評し愛でているお前たちは、作中の顔のない男たちと同じだ」という告発がなされているような気がしてなりません。私たちの視線そのものが、女を見られ、選ばれるだけの客体に貶めているのだと。

■よって、野ばらさんの
作中にでてくる学校は、はたしてユートピアか監獄か。
という問いかけに、私は以下のように答えたいと思います。
ユートピアでも監獄でもない。もちろん、私が当初考えていたような、遊郭の禿さんたちの住処的な場所でもない。学校とは、女性を、男性に品評され所有される性的対象に仕立てあげる社会の装置そのものである、と。上のほうで取り上げた「服従は幸福への道」という言葉はアウシュビッツの「労働は自由への道」というスローガンを連想させますが、それならば社会全体が女にとっての「アウシュビッツ」である、そしてその構造を再生産しているのは私たち一人ひとりである、と言いたいのかもしれません。(追記:すいませんここは言いすぎでした。アウシュビッツ的ではなく、むしろ女性として望まれる姿に適応してしまえばそれなりに生きやすいのでしょう。そして、それを内面化しつつある存在として少女たちは描かれているように思います)
この作品は、現実社会のグロテスクなパロディです。ロリータを愛でる映画のように見せかけつつ、ロリータを生み出す社会とロリータを愛でる私たちの視線の暴力性を鋭く批判しているのではないか、と私はとらえました。

・・・なんてね。「んなワケねーだろ」というツッコミがあちこちから入りそうですが。
ここまで書いてから公式サイトの監督のインタビューを読んだら、
そしてそこには、重苦しく根本的に潜んだ概念があったのです。それは、少女たちは実際、生命を存続させる為に準備させられている、という事です。自然科学の授業では生命の周期をテーマに学び、体育は彼女達が常に美しく、優雅でいられるための教育です。このような教育は全て種の存続という考えからきているのです。
という記述を見つけました。(3つ目の質問の回答)
そのようなあり方を監督は肯定的にとらえていて、私は否定的にとらえている、ということなんでしょうか。うーん。
ものすごい余談ですが、西洋的ロリータと日本のゴシック&ロリータのようなロリータの違いは、前者が他者から「彼女はロリータ」という風に定義されるのに対して後者は自ら「私はロリータ」と主張しているところにあるんだと思います。

↓それでもロリータを愛でたいあなたはコチラ。同志よ。
FC2ブログランキング
人気ブログランキング
スポンサーサイト



テーマ : 映画感想 - ジャンル : 映画

タグ : 映画評論 エコール ジェンダー ロリータ

【編集】 |  03:11 |  ファイル倉庫  | TB(1)  | CM(0) | Top↑

Comment

コメントを投稿する

URL
コメント
パス  編集・削除するのに必要
非公開  管理者だけにコメントを表示
 

トラックバック

この記事のトラックバックURL

この記事へのトラックバック

ミミギャスパー・ノエ、サンドラ・サマルティーノ 他 (2000/09/08)日活 この商品の詳細を見る去年、シネマライズをはじめ全国のミニシアターで上映されて人気を博したエコール / ゾエ・オークレール、ベランジェール・オ
2007/11/24(土) 05:18:28 | 今夜の焼きザカナ
 | HOME |