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2006年10月13日(金)

国家の品格?(笑) 前編 

国家の品格 国家の品格
藤原 正彦 (2005/11)
新潮社

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緑字は引用です。強調は特に断りがない限り深海魚によります。

発売された直後にパラパラ流し読みをして「うわ、これはないな」と思って本棚に戻したのですが、改めてきちんと読んでみてツッコミどころの多さに目が点になっています。ひとつひとつ気になる箇所のページを折っていったら(注:本は大切にしましょう)ほとんど全ページにチェックが入っていました。

■グローバリズムとか経済が理解できてないとか、歴史知識が間違ってるとか、「平等」や「民主主義」を誤解しているとか、「論理」の認定範囲が狭すぎるとか、そういった批判は素人の私がやるよりもっと充実した反論をネット上に公開されている方が沢山いらっしゃるのでそちらを読んでいただきたいのですが。国家の品格 批判 - Google 検索
さて、私からはどう料理したものか。私はそもそも、この本の記述スタイル、つまり諧謔や笑いを含ませて表現を軟化させつつ、自分の主張を展開するという方式が嫌いです。なぜならそれは主張に含まれている間違いや偏見を「マジメに」指摘する行為を「ネタにマジレスカコワルイ」といわんばかりに「空気」によって封じる効果があるからです。藤原正彦はこの本を「ネタ」として書いているという指摘をWeb上でいくつか見かけましたが、たとえ本当にそうであったとしても、受け取り手は必ずしも「ネタ」と受け取るとは限らず、「ネタ」に対して「マジメに」反論できないでいるうちに「ネタ」が多くの人々に素直に信じられてしまう、という構図を生み出しかねません。実際「国家の品格」の売れ行きと引用のされ方を見ていると、そういう構図が生み出されているとしか思えない。ジョークを絡ませて主張をする際にはたとえ表現が軟らかくても主張そのものは「マジメに」やっていて「マジメな」批判に堪えうるつもりであるということを何らかの形(言外を含む)で示すべきではないでしょうか。・・・私自身マジメな主張をする際に読者/聞き手をひきつけるために、もしくは反発を抑えるために笑いを利用する傾向があるので、あんまり書くと自分の首を絞めるんですけども。いや、一応中身はマジメにやってるつもりですよ?(ビクビク)

【More・・・】

■というわけで、私としてはあえてベタに批判したい。といっても、この本、実はツッコミどころは多いのに丁寧に批判しようとすればするほどツッコミづらいのです。例えば日本の伝統精神の象徴を「武士道」と規定した上で、西洋の「自由」「平等」「民主主義」を慣習や情緒(≒伝統)を無視しているフィクションだからダメだと批判しているのがこの本の主旨のひとつであるわけですが、これだけなら「アンタの言ってる武士道だって伝統でもなんでもない近代の産物ですから、残念!」でひっくり返せるような気がします。ところがよく読むと、

>私自身が推奨している「武士道精神」も、多くは新渡戸の解釈に拠っています。
 新渡戸の武士道解釈に、かなりキリスト教的な考え方が入っていることは確かです。それが、元々の鎌倉武士の戦いの掟としての武士道とはかけ離れている、との説も承知しております。しかし、大事なのは武士道の定義を明確にすることではなく、「武士道精神」を取り戻すことです。
 少なくとも、新渡戸の武士道は、私が幼い頃から吹き込まれいていた行動基準と同一です。多くの人々も同じ思いを持つと思います。その意味で、近代武士道は新渡戸の書にもっともよく表現されていると思うのです。

(P.121-122)

と後のほうで自分でフォローしているんですね。つまり彼の主張する武士道もまたフィクションであることを知りながら、多くの人の情緒にそったものであるから日本のフィクションはきれいなフィクションであると。どう反論しろっていうんだ、そんな印象論。こういう部分が多々あって、ツッコミにくいのです。
じゃあ著者が自分でフォローできていない細かい間違いを逐一指摘していけばいいのかというと、「新書」で「講演録の焼き直し」であるという本書の性格上、この程度の勘違いやミスリードを含んでいる同種の書はそれほど珍しくないと思われますので、一つ一つ目くじら立てるのも大人気ない。第一、それをやっていたら記事が3日分は確実に埋まります。そこで、数々の細かい点の中から細かいがゆえにあまり言及されていない、しかし私にとってはどうしても看過できなかった2点を主として話を進めようと思います。

■まずは1つめ。

>我が国では差別に対して対抗軸を立てるのではなく、惻隠の情をもって応じました。弱者・敗者・虐げられた者への思いやりです。惻隠こそ武士道精神の中軸です。
 人々に十分な惻隠の情があれば差別などはなくなり、従って平等というフィクションも不要となります。差別を本当に撲滅しようとするなら、平等という北風ではなく惻隠という太陽をもってしなければなりません。北風が無効であることは、アメリカの現状を見れば明らかです。

(P.90-91)

惻隠の情とは元は孟子が言い出したものであり、まあ端的に言ってしまえば、弱者をかわいそうだと思い、見捨てるのが忍びないと感じる心情です。その心が全員に備わっていれば誰も「弱い者いじめ」たる差別などしなかろう、と藤原さんは言っています。平等だなんだと大声を上げて運動しても嫌がられるばかりで差別はなくならないのだから、思いやりの心を育ててそれによってなくしましょう、と。しかし、よく考えてみてください。平等を掲げて運動をするのは誰でしょうか。差別されている当事者です。それじゃあ、惻隠の情をもつのは?差別する側に回っている強者ですね。これはつまり、被差別者からのアクションによる解放運動を全否定しています。差別されている人間は目の前に迫害や抑圧が存在する状況下にあります。それなのに、自分から声を上げて反論しても「北風」になってしまって無駄だから、おとなしく黙って、自分を差別している人間がいつの日か、「弱い者いじめ」がよくないことだと気づいてくれるのをただ祈っていろ、とそうなってしまうわけです。あるいは声を上げるにしても、それは怒りの声でなく「自分たちは苦しいんです、弱者なんです。いじめないでください」と強者に惻隠の情をもつように促す物言いしかできなくなります。問題解決を自力で行うことができず、自分を差別している側が慈悲によって解決してくれることを、本当にしてくれるのかも、いつになるのかもわからないままに待つしかない、それが被差別者にとってどれだけ残酷であるのか、わかっているのでしょうか。
そもそも、差別の中には差別されている当事者以外にはなかなか見えてこないもの、下手をすれば被害者ですら気付かずに存在しているものだって多くあります。前者は例えば入国管理局の中で行われる外国人に対する問題ある処遇など、一般の日本人は目にする機会がほとんどありません。後者は慣習や日常言語の中に含まれる偏見などです。「弱い者いじめはよくない」という「情緒」によって差別を解決しようとすることの第2の問題点は、マジョリティ、もしくは差別をする側がある行為を「弱い者いじめ」であると理解していなければ、それがいけないことだという認識も持ちようがないということです。こうした差別者が気づいていない差別は、問われることなく温存されてしまうことになります。
藤原さんの言説は当事者運動を否定し、無意識の差別を告発することを否定していると言えます。しかも、彼の説によれば意識下の差別でさえ強い者が弱い者を思いやるという形でしか解決され得ません。これは差別を解消するどころかその温床となる「強者(もしくはマジョリティ)」と「弱者(もしくはマイノリティ)」という枠組みをいっそう強化するものでしかありません。もう、すがすがしいまでに差別者の論理です。

■長くなってしまったので後編に続きます。

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テーマ : 売れてる本 - ジャンル : 本・雑誌

タグ : 書評 藤原正彦 国家の品格 新潮新書

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