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2006年10月01日(日)

私たちが当たり前のように不健全に、たとえ後ろ指を指されても石はぶつけられずに生きていける自由のために 

■毎度誰一人お待ちかねでない深海魚の演説の時間がやってまいりました。今日は普段の日記よりは硬いんだけど、コラムコーナーに置いとくほどまとまってもないし・・・というなんとも中途半端な書き散らしを3つほど、開陳いたします。なお、読んでもただの時間の無駄に終わる可能性大なのでご注意を。

■タイトルが異様に長いですが、不健全=一般的とされる傾向から逸脱する思想・趣味・嗜好、後ろ指を指す=「良識ある」人たちがひそかにもしくは個人的にそれに嫌悪感を示すこと、石をぶつける=非難や弾圧を公然と行える状況、ということだと思ってください。

私の英語の先生は、元軍人のアメリカ人です。彼は左派を自認する人で、日米ともに教育への権力の介入・管理が強まってきていることに懸念を抱いています。幸い、うちの学校ではまだそうした傾向があまり見られないそうだけれども。
その彼が、授業中の雑談としてなした発言を、考えるための事例としてピックアップします。

 「今都教委の国旗・国歌通達に違法判決が出たけど、僕の出身地でも昔は国歌斉唱があったんだよね。結局ベトナム戦争を経て、教育で国家に忠誠を誓うのは洗脳にしかならないってことで取りやめられたんだ」
 「安倍政権の教育改革はやっぱり徴兵制を狙ってると僕は思う。今は男女平等に誰も反対できない状況だから、そうなれば女性も兵役につくことになる」
 「格差社会っていうけど、思うに政府はわざと格差を作り出して下層が(生活や階級上昇のために)志願兵になるのを狙ってるんじゃないかな」
 「今のアメリカの入国審査は異常。僕はもう絶対あんなところには行かないよ」

いかがでしょう。私的には参考になるところもあり、いやそれは違うだろうと思うところもあり、なのですが。今回問題にしたいのは個別の発言の当否ではありません。
今のアメリカでは、彼のような考えは異端で一般的でないものとしてとられるということなんですね。「アメリカにはもう行かない」と宣言した彼の心にどれだけ、祖国たるアメリカへの愛着があるのか、私にはわかりません。それを愛国心がないとか、反米(日本人が日本人に対して『反日』というのと同じニュアンスだと思ってください)だとか、よその個人が思うのは勝手です。あるいは「そもそも愛国心ってどこの国に抱けばいいんだっけ?」と考え込んでしまう私に対して、おかしいヤツだと思うのも勝手です。それを受けて私が「バカだなあ」と思うのも、もちろん私の勝手です。けれど、じゃあ発言できないようにしましょうとか、不健全な価値観だから(批判でなく)是正させましょうとかいう方向に行くことだけは許容できません。

これは何も、愛国心やら政治的立ち居地やらに限った話ではありません。例えば、服装。髪型。音楽。漫画。ゲーム。あるいは・・・異論があるかもしれないけれど、いわゆる「常識」「マナー」。「良識ある人々」が眉をひそめるものはいくらあるでしょう。眉なんか思う存分ハゲるまでひそめてりゃいいと思いますが、「あなたもああいうのはよくないと思うだろう?」「一緒にやめさせよう」ましてや「法律でああいうのは取り締まらなきゃいけない」なんてなったらたまったもんじゃありません。
青少年健全育成条例をはじめとして「健全な社会」「健全な常識」「健全な家族」「健全な愛国心」・・・お偉方は随分「健全」という言葉がお好きなようですが。誰もが安心して暮らせる健全な社会なんか、要らない。今のところ特に他者を侵害するようなことはしていないけれど、見るからに怪しげな人物がお隣に住んで人に言えないとされるような趣味に没頭しているとして、100歩譲ってそれにご近所が「怖いわね」とヒソヒソするのは認めるとしても、「怖いから皆で監視しよう、追い出そう」なんて誰も言い出さないし、ましてや公権力が排除を推進するようなことなんて天地がひっくり返ってもありえない。誰もが多少の不安を仕方ないものと思いつつ共生する、そんな社会こそが私の望むものです。

参考:「ニート」って言うな! / 本田 由紀、内藤 朝雄 他
    第2章「構造」―社会の憎悪のメカニズム 内藤朝雄

ちなみに余談ですが、私はこの英語の先生の雑談で安倍政権の話が出たときについうっかり応答したせいで、講義の後15分ほど絡まれる羽目になりました。すいません、英語で民主主義の長所と弱点とか、語れません。

【More・・・】

■よく「お前の権利は国家が保障してくれてるんだ」「国があるからお前は守られてるんだ」って言うけれど。

社会契約説を持ち出すまでもなく、国家というのはそれ自体が存続するために構成員(国民)から一定程度の権利を移譲されなければなりません。例えば税金という形で財産権の一部を、軍隊・警察という形で暴力全般を、という具合ですね。
近代国家はそうやって国民の権利を一部奪うことの正当な理由として、国民の権利と安全を保障することを掲げます。立憲国家であれば、憲法が「私はあなたたちにこういうことを保障します(だから、私が存続できるように権利をください)」という約束になっているわけです。*ですから、もし国側が少しでもその約束を破れば、人は国に権利を委託する(国民となる)根拠がなくなりますから、だったらお前との契約は反故だ、権利を返せ!と叫んでも何もおかしくありません。そこまでいかなくとも、約束を守るように国のあり方を変えようとするのは当たり前。これは、国民が持つ正当な権利です。

国家が私たちの権利を保障しているのはその通り。それは当然の義務であり、果たさなければ国家は存在を許されません。
「国が守ってくれているんだから文句を言うな、尊敬しろ」ではなく「国がちゃんと仕事(権利擁護)をしているかどうか目を離してはいけない」「してなかったらそんな国いらねえ」が正しい態度のはずです。
*10/2追記:国民が国家に命令して約束させている、のほうが正しいかも

以前、「私は語学が嫌いだぁぁ!」と叫んだことがありました。
イクとかI'm comingとか不穏な文字列はさくっと無視して関係あるところだけ引用しますと、

>じゃあなにが嫌いかっていうと、特に目的もなしにただ話せるようになることだけを目指すような「ためにする」語学(端的にいえば最近の英会話ブームとか)がどうしても楽しいと思えないんですね。
もちろん話せないよりは話せるほうがいいだろうし、それが好きな人はどんどんやればいい。ただ個人的に好きか嫌いかといわれると、深海魚はそういうのはちっとも好きません。

ましてや「国際人になるために英語を覚える」とか何とかいわれると、鼻で笑っちゃう(笑)

(強調は原文による)

これだけじゃあ国家の品格 / 藤原 正彦並に品格に欠けるので、もう少しだけ掘り下げてみたいと思います。まず過去に表明したとおり、教育の目的のなんたるかも見極めないままただ英語やっときゃいいじゃんって風潮はムカつく!というのが根底にあるわけですが、それとは違う視点から英語教育にウエイトをかけすぎることへの危機感を表明してみたい。
私の危機感の大半は、実のところ英語教育そのものよりも世界において英語がスタンダード化すること自体に向けられています。

一つには、英語を母国語とする人間とそうでない人間が共に存在する中で公用語を英語に設定するということは、簡単に言ってしまえば言いたいことが同じレベルなら常に英語圏の人間が勝つ状況、を作り出していることになります。語学力の壁や翻訳によるニュアンスの再現困難といったハードルが、英語圏以外の人間にのみ課せられる構造になりますので。
現在英語が広く使われている背景には英語文化圏の世界における優位性(優れている、ではなく言葉自体にもそれ以外の要素においても普及しやすい構造がある、という意味で)がありますが、上段に書いたとおり英語が使われること自体が英語文化圏ないしそれに属する人間を勢力争いにおいて有利にする効果を持っています。英語圏優位だから英語が使われる→英語が使われるからより英語圏優位になる→英語圏優位だから(以下略)という具合で車輪の両輪のように働きながら英語と英語文化圏の中心性を強化していく構造があるように、私には思えます。

もう一つには、言語というのは認識から生まれて認識を縛るものである(よね?)という視点から。例えば、「犬」と「熊」を区別しない言語を話す民族がいることは有名ですが、私たちが犬と熊を区別するのはそれが別のモノだという認識があったからでしょう。しかし、ひとたび「犬」と「熊」という単語が普及してしまえば例えば犬と熊を同じものだと考えること自体、そしてそれを説明すること自体難しくなります。それを表す単語がありませんから。
こうした言語の持つ性質を踏まえて考えると、国際的な場での公用語が英語に規定されるということは、英語で表しにくい概念が英語で思考する限り発見されにくくなり、個別の英語圏以外の場所で発見されたものもそれを英語にすることが難しいので国際的な場に紹介されにくくなる、ということが起こりえるのではないでしょうか。もちろん不可能ではないのでしょうが、それには表したい概念にふさわしい新たな単語を作り出して、なおかつその単語の表す内容を既存の英語にある語で説明する、というものすごい労力が必要になります。多くの場所でこの「言葉作り」は行われ続けていますが、公用語が英語である場ではもともとの概念が英語で表されていなければそれを英語にするためにもともと英語である概念より1段階多く「言葉作り」をしなければなりません。そしてそれが与える影響は無視できないのではと思います。

逆に言えば、公用語が多言語である、あるいは個人が多言語を使いこなせることはそれだけで、1言語では表せないものも2言語使えれば表せるかもしれないという意味で思考と表現の内容を豊かにしますから、外国語教育自体は悪いものではないんですけどね。日本語で考えにくい、表現しにくいことも当然ありますので、それを他言語が補ってくれればと思います。もちろんセミリンガルになってしまっては元も子もありませんけれど、1つ以上(1つじゃなくてもいい)の抽象的思考可能な言語能力が成長するのを妨げない範囲でなら、しないよりは断然したほうがいいことになります(人間の時間は有限ですので他の活動とのバランス・優先順位の問題になっていくのは当たり前のことですが)。そして、そのときに覚える言語の選択肢として、英語が選ばれること自体は、悪いこととは思いません。しかし、どこもかしも英語一色になってしまうと上記のような弊害が起こってくるのではないでしょうか。
これは文化の多様性が失われるとかそんなナイーヴな話(失礼)ばかりではなくて、英語そのものが抑圧構造になったり英語圏以外に存在する深刻な抑圧が発見・紹介されにくくなる可能性、ということでもあります。
で、じゃあどうすればいいのかといいますと。

皆目、見当つきません。

問題提起だけならバカでもできる。ハイ、おっしゃるとおりです・・・

■今日のひとこと中国語
もう、何も考えたくない→「我不想再想東西了(ウォーブーシャンザイシャンドンシーロ)」
労力と時間を使った上に出来上がりがどうしようもないと凹みますよね。今日の私の日記とかね!

↓ここまで読んで労力と時間を無駄にしたあなたはこちら
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テーマ : 日本のルールとマナー、常識と非常識。 - ジャンル : 政治・経済

タグ : 愛国心 自由 表現 国家 英語教育

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