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2006年08月26日(土)

長らくお待たせしました その2 

*1つ前のエントリーの続きです。
■さて、今まで南京の南の字も出てこなかったこのブログでなんでいきなりこんな質問をしたかというと。原因の半分くらいは、深海魚の暴走列車のようにどこへ向かうかわからない好奇心がたまたま南京事件に行き着いたので、ここを読んでいる中にもきっといるであろう物知りな人々を突っついてタダで教えを請おうという小ズルい考えなわけですが。

実は、もう一つ目的がありました。ええと、あらかじめお詫びしておきますと、人にものを訊くにしては随分失礼な考えかもしれません。お気に触りましたらあとで深海魚を煮るなり焼くなりしてくださって結構ですので。
前述の通り、当ブログは普段は南京を扱っていません。内容はときどき居酒屋政談レベルで政治がどうたら社会がどうたら言い出すものの、基本的にはおバカな日記・雑文。読んでくださっている方は私がネットで知り合った方とそのまた知り合い、そして私のオフラインでのお友達がほとんどです。でまあ、社会談義っぽい話が出ると熱くなる方も少々いらっしゃる(管理人筆頭に)。
というわけで、「インターネットを多く使い、ニュースや社会問題にも興味はあるが特に南京に関心を払っているわけではない」という層が多いんじゃないかと仮定したんですね。つまり、主にインターネットから「南京事件に関してこんな論争が行われている」という知識は得ているけど、議論自体に加わろうとは思わないしそのために読書をしたりもしない、みたいな。

【More・・・】

私は「あの事件って、インターネットをやる人間の中ではどんな風にとらえられているのか、ふと知りたくなりました。」と書きました。
正確には、そんな人たちの中では、南京事件に関してどんな議論が行われていると思われているのか知りたかったのです。もしかして、かつての私がそうだったように「あった派」と「なかった派」が対等な論争を繰り広げている、と捉えているんじゃないかと。要は、私だけがバカだったんじゃなくて皆が陥りがちな罠だったんだということを確かめたかったという(笑)
>このブログ、読者数は少ないけれど「右」から「左」まで揃ってそうでここで訊いたら幅広くいろんな意見が聞けそうな気がします。(中略)「こうこうこういう事件だったと思う」でも「○○だからあった(なかった)と思う」でも「そもそもよく知らん」でも「俺サマの知識を開陳させろ!」でも身内の方の体験談でも何でも結構です。
と、「右」が「なかった派」、「左」が「あった派」の対称的な議論であるような訊きかたをしたのは、それを確かめるためにちょっと誘導したんですね。

■7日のエントリーで、日本の(著名な)歴史学者の学説のうち秦郁彦さんが犠牲者数を最小(4万人以上)に、笠原十九司さんが最大(20万人)に見積もっているらしいよ、と書きましたが。これ、「あった派の歴史学者」の話でも「左寄りの歴史学者」の話でもないんですね。秦さんにいたっては「新しい歴史教科書をつくる会」の賛同人ですよ、奥さん。
つまり、歴史学の専門家の間では「数万~20万派」が圧倒的優位を占めているわけです。少なくとも万単位は下らない。信じられないなら、試しに「数万~20万派(虐殺派・中間派)」と「それ以下派・なかった派(まぼろし派・否定派)」の主な論者の経歴を比較してみるといいと思います。
>「南京事件」は日本軍による南京攻略戦とその後の占領下で、南京市全体で軍民合わせて数万~十数万人が不法に殺害され、略奪・暴行・強姦なども多発した事件である、と認識しています。かじっただけの知識なのでこれから変わる可能性はありますが。
という私の見解は、私独自の見解というより、日本の主流派の主張を否定する材料が見つからなかったのでそのまま引っ張ってきただけです。私はこの件に関しては今のところバリバリの「日本寄り」でございます(笑)

ところが、ネット上での議論をながめているとどうもそういった認識が共有されているとは思えないところがあります。対等だと思われているどころか、ヘタしたら「数の問題でなく虐殺自体なかった」という説が有利だと思われている節さえある。もちろん、専門家が誤ることもあるし、現代のガリレオ・ガリレイがこの分野において登場しないとも限らないから「通説」を批判するのは自由ですが、それが通説であるとさえ知られていないのはどうかと。
そこを上記の、ネットで議論自体は目にするけれどそれほど関心がない層が見るとどうなるか。まず、「あった派」と「なかった派」が「どっちもどっち」であると誤解してしまうのではないでしょうか。関心が少ないのですから、引用されている文献などをいちいち脱文脈的に使われていたりしないか、著者の経歴や評判は、などと確かめて双方の信憑性を判断するとは考えにくい。せいぜい「あった派」と「なかった派」のサイト、両方見ておこうか、ってくらい。もちろんそれだけじゃ判断がつきませんし、一方的にどっちかに肩入れすることにも抵抗がありますから、勢い、なんとなく「あったかなかったかわからない」「あったけれど特に問題にするほどじゃなかったかもしれない」という位置に自分を置きがちです。いや、私がそうだったって話なんだけどね。

これを無理やり単純化して図示すると、
想像上の「あった派」と「なかった派」
という風に肯定派と否定派の間に立つことで中立しているつもりなんだけど、実際二つの勢力は対等ではないので
実際の「あった派」と「なかった派」
こうなってしまって、真ん中を外れて否定派に近い意見になってしまう、と。Gananさんへのお返事にも書いたけれど、中立って難しいんですよ。
いただいたコメントの中では特に壬音ちゃんにその傾向が見られるのではないかと思います。「虐殺といえるほどの数じゃなかったかもしれない」とか「やったのは日本軍じゃなかったかもしれない」とか、ほぼ「なかった派」の言説そのまんまですぜ(ごめんね)

■通説が通説として認識されない現象を引き起こす原因としてはインターネット空間の「島宇宙化」で自分に近い意見ばかり目にするようになって「外」が見えなくなる、だとか権威を疑うあまり権威を批判する言説を無条件で信用してしまうことなどが指摘されています。両方とも、深海魚にもギクッとするところがあるので耳が痛いのですが。

もう一つ思ったのが、教育の影響。日本の歴史教育は自虐史観だとか、平和教育を重視しすぎるとかよく言われてますけど(そりゃ、中国あたりの教科書と比べりゃそうだろうさ)、70年代以前は平和教育といっても日本の被害者としての側面、つまり原爆だとか、空襲だとか、食料がなくて苦しんだ話とか、そういうのがメインだったんですね。当然批判が来るわけで、80年代からは加害者事実を教えることにも力が入れられ始めましたが(参考:京都教育大学教育社会学研究室ホームページ内『平和教育に関する用語』、特に受験に力を入れてる中高時代なんて、近現代史の分野なんてさらーっと流されてしまうでしょう。第二次世界大戦も主な戦闘の名前・場所、関連する会談や条約の名前と開催・締結された年なんかを覚えるだけで終わってしまう。ましてや南京事件なんて個別の事件に深入りしたりしません。
毎年の教科書論争の報道などでも、「南京大虐殺」もしくは「南京事件」という語自体は嫌でも耳に入ってきます。中国側の主張が「犠牲者30万人」だということも、知っている人がほとんどでしょう。けれど、詳細までは知らない。その結果どうなるかというと。
「日本軍は30万人の民間人を無差別に虐殺したんだ!」という中国だって主張していないようなイメージ(中国側の主張は軍民合わせて30万人です。この数字は国民党政府下の南京軍事法廷のときから変わっていないので、徐々に増えたわけでも共産党が誇張したわけでもありません。参考:南京軍事法廷判決文 - 南京事件 小さな資料集 ちなみに日本の学者で30万人説を採っている人間がいないところを見ると、ザル勘定のようです)が形成されてしまうのではないかと。で、そのもともとありえないイメージを否定するような根拠が出ると、南京事件そのものが否定されたようなつもりになってしまう、という図があるのではないかと思います。

そこに、玉響さんへのお返事で書いたような旧日本軍と自分自身を「同じ日本人」として過剰に同一化させる心理が働くと、
 「民間人が30万も殺されたなんてありえないと思います」
 「そりゃそうでしょうね」
 「そうでしょう、だいたい俺ら日本人が虐殺なんて酷い事するわけないんです!」
 「えっちょっと待って」
と、斜め上としか言いようのない展開になってしまったり。
いきなり完全否定に走るまでに行かなくとも、「やっぱりなかったかもしれない、わからない」と揺らいでしまうことは十分考えられます。本来なら、近現代史を丸暗記で済ませずにもう少し丁寧に教えてくれれば済む話なんですが。といって、ただでさえキチキチの学習時間の中で南京にだけ時間を割けというわけにもいかないし、同じようなイメージと現実の乖離が起こっている事例はいくらでもあるので、どうしたものか・・・。

そして難しいのは、目の前の情報や意見を自分が判断出来ないと思った場合、「中立でいよう」「意見を保留しよう」というのはリテラシーとしては正しい態度とされているんですね。けれど、南京事件論争のような事例に関しては、この「中立」が落とし穴になります。ぱっと見「中立」に見える立ち居地が実際にはちっとも「真ん中」じゃないんですから。
意見を保留する、というのが「中立でいる」という意味でなく「どちらにつくとか中立でいるとかの判断自体をしない」という形になってくれればいいのかもしれません。

■以上、「南京」を皆様に問いかけながら深海魚はこんなことを考えていたのでした。もちろんきちんと調査とかしたわけじゃないから、私の雑感にすぎませんけどね。
最後に、ご協力くださった3人にもう一度感謝を。ここまで読んでくださった画面の前のあなたも、ありがとうございました。

以前ご紹介した以外で、参考にしたサイト:
Apes! Not Monkeys! はてな別館
南京大虐殺論争 - Wikipedia
↑肯定派と否定派を同等に扱っているのは「中立性」というWikipediaの性質上だと思われます。ノートも必見です。

↓この記事で何が言いたかったのか正直わからなかったあなたはコチラ
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テーマ : 歴史 - ジャンル : 政治・経済

タグ : 南京事件 ネット世論

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