2006年10月14日(土)
国家の品格?(笑) 後編
| 国家の品格 藤原 正彦 (2005/11) 新潮社 この商品の詳細を見る |
*私と同じ点に言及している(批判の中身は少し違いますけど)ブログ様を見つけたのでリンク&トラックバックさせていただきます。同じFC2なあたり親近感が(笑)
日常ぶんか社会学 〜sociological analysis of everyday life culture〜 内
『国家の品格』の品格 3章 この発言やばくない?
『国家の品格』の品格 4章 あれ、まともかな?
■そして2つめ。
>私は、ガーナ人でガーナを愛さない奴がいたらブッ飛ばします。韓国人で韓国を愛さない奴がいたら張り飛ばします。仮に張り飛ばさなくても、少なくともそういう人間とは絶対に付き合いません。根無し草と付き合っても、何一つ学ぶものがないからです。
(P.112)
>日本人は日本人のように思い、考え、行動して初めて国際社会の場で価値を持つ。ガーナ人はガーナ人のように思い、考え、行動して初めて価値があるということです。
(P.147)
この人は、人は国家に根をはるか根無し草になるかの2択しかないと思っているようですがね。国を持たない人々や何らかの理由で国籍国と出生国、血統上の祖国がバラバラであったり複数にわたっている人たちはどうすればいいんでしょうか。自分の話になっちゃって申し訳ないんだけど、私なんかも上記の理由で「国を愛せ、の国ってどこ?」と首をかしげざるを得ないわけで、この著者が言うような祖国愛なんて持ちようがないんだよね。
もちろん祖国と呼べるものが複数あったからといって必ずしも私のような考えに至るわけではないのだけれど、こういう境遇にある人間は例え明確なナショナル・アイデンティティをもっていたとしても第三者からその通りに見られるとは限りません。またまた自分を例に出しますけども、私も「中国人」と呼ばれることもあれば「もう日本人だよね」なんて言われることもあります。ありえない仮定だけど、例えば私が日本と中国の両方にルーツを持つにもかかわらず「自分は日本人」という自己規定を持ち、日本を愛し、日本人的だと自分が思うように考え、行動していたとします。自分ではいっぱしの愛国者気取りです。しかしもし第三者から見て私が「中国人」に見えていれば、私は「中国人なのに中国を愛していない」ことになってしまい、国を愛していない根無し草として認識されてしまいます。本人の内心や行動に関わらず、祖国愛がないと判断される可能性を私たちは内包しているんですね。
「人間は祖国を愛して当たり前」という意見は、祖国とは自明のもので、その上で「愛す」か「愛さない」か選択する、という構図ですから、誰もが明確で疑問をさしはさむ余地のない「祖国」を持っているという前提に立たなければ成り立ちません。それとも、明確な祖国を持っていない人間は生まれながらに付き合う価値のない根無し草だとでも言うつもりでしょうか。私たちの一部はグローバリゼーションの産物ですから、反グローバル派の藤原さんにとってはなるべくいないほうがいいとでも?
いくら藤原正彦憎しに染まった私でも、国を持たなかったり複数持つ人々を彼が本気で敵視しているとは思いませんけどね。おそらくは単に忘れていたか、読者/聞き手として想定していなかったんでしょう。
しかし、この本の元になった講演は城西国際大学の主催で行われた(正確には東芝国際交流財団との共催ですが)国際理解をテーマにした公開講座でのものです。そう、国際大学。「祖国」の自認があいまいであったり自認と他者の認識が一致しない人間が少なくとも他の場所よりは多いだろうと考えられる場で、彼らの存在を完全忘却した発言ができるその神経に感服いたします。「ブッ飛ばします。」だって?あたしゃアンタをブッ飛ばしたいよ。
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