2006年09月04日(月)
母を特別視できない私の読書
| 母という暴力 芹沢 俊介 (2001/09) 春秋社 この商品の詳細を見る |
やっと読了しました。1冊ずつ積読解消してかなきゃな。
で、本書の感想ですが。虐待の地平、という考え方には大いに刺激されました。
著者は「教育する母」が古くは女大学の良妻賢母思想に始まり、明治の立身出世主義で国家による賢母イデオロギーの推奨が行われたと分析しています。それが戦後、国家による奨励という部分がなくなり(最近の教育基本法改定議論を見てると、なくなってないと思うけど)代わりに企業内での立身出世という個人の利益のための教育が行われるようになったと。で、その「教育」というのは子どもを丸ごと受け止めないので暴力的であり、虐待の温床にもなるとのこと。
この辺におおむね異論はないのですが。その「教育する母」の部分を取っ払った後に根源的な母性性が残るという部分は、どうなんだろうと思ってしまいました。母というものが暴力と無縁ではない、むしろ表裏一体である以上、良妻賢母イデオロギーが母性の上に打ち立てられた神話というより、根源的な母性そのものが神話なんじゃないかと深海魚は思っています。あるいは、母性とは暴力だ、とかね(笑。でも、著者の言う『避けられない暴力』ってのはそういうことだと思う)。
疑問その2。「母」という表現をされる女には、必ず「子ども」がいます。その子どもを産んだことは、子どもに一切の責任がないという意味で「こんな身体に生んでしまった」という避けられない暴力であると著者は言っています。しかし、子どもを産むことは母1人で出来ても子どもを作ることは父がいないと出来ませんよね。2人によって「こんな身体」が作られたのに、その責任を母1人が問われるのは何ででしょう?
その3。やたらと母の役割を強調しているので「子どもはお母さんが受け止めてやらなきゃ駄目なんだよ」論なのかと思ったら、受け止める母が不在である時は父や養親が子どもを受け止めて「母」や「乳房の女性的役割」を担うこともできるんですね。受け止め手が代替可能なものならわざわざ「母」「母性」と呼ぶ必要ないんじゃないかと思います。そもそも、家族の中の誰か1人だけが全人的に子どもを受け止める必然性なんて、ないんじゃない?
全体的に「母性」に対して本質主義的すぎるという感想を否めませんでした。
テーマ : 人文・思想に分類される本の感想 - ジャンル : 本・雑誌
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